6827. 「モーセは、ミデアンの祭司、義父エテロのヒツジを飼っていた」とは、神由来の律法が、単純な善の真理に宿る人々を、教化することを意味します。「ミデアンの祭司」とは、このような人々がいる教会の善です。その根拠は次の通りです。
「モーセ」とは、神的律法面から見た主を表わします(6752節)。当初、モーセが主を表象する際、〈神由来の律法に属する真理〉から見ていましたが、ここでは、神による律法面から見ています。これは主の人間性が、神的律法そのものになるまでに、主の中に段階的進展があったことを浮き彫りにします。
〈みことば〉全体は、その内奥・最高の意味で、焦点になるのは、ただ主であり、主の栄化だけです。ただし内奥・最高の意味は、人知を超越するため、内的意味の面で、〈みことば〉を解説することが許されます。
その際、テーマになるのは、主のみ国と教会、および教会の設立であり、主が再生に導かれる教会人です。内的意味上、以上に言及できるわけは、人間の再生が主の栄化の表象的イメージだからです(3138,3212,3245,3246,3296,3490,4402,5688節参照)。
② 「飼う」とは、教化するという意味があります(3795,5201節)。「ヒツジの群れ」とは、学ぶ人であり、真理を通して、仁愛の善に導かれる人です(343節)。
また一般的意味での「ヒツジの群れ」は、教会です(3767,3768節)。ここでの教会は、「ミデアン」が意味するとおり、単純な善の真理に漬かっている人からなる教会です(3242,4756節)。
「義父」は、善を意味します。父親から、〈真理に結ばれた善〉が現実化しますが、そのような善の源になる善のことです。ここでの真理は、「モーセ」が表象する神由来の律法に属する真理です(6793節)。「エテロ」とは、その善の正体を示します。「ミデアンの祭司」とは、単純な善の真理に漬かっている人々がいる教会の善です(6775節)。
以上で明らかになるのは、次のとおりです。すなわち「モーセは、ミデアンの祭司、義父エテロのヒツジを飼っていた」とは、単純な善の真理のうちにある人々を、神由来の律法が教化することを指すとともに、「ミデアンの祭司」とは、かれらがいる教会の善を意味します。