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A Ransom for Many - それは何を意味するのでしょうか?

Nga New Christian Bible Study Staff (Makinë e përkthyer në 日本語)

A Ransom for Many - それは何を意味するのでしょうか?

今から約2000年前、ナザレのイエス、イエス・キリストは十字架にかけられました。死にました。苦しみながら。そして、翌々日の朝には死からよみがえりました。彼の肉体は消滅した。というより、その後の出来事を考えると、それは霊的なものに変化したようだ。それ自体、考えると面白いことですが、この記事の焦点ではありません)。

その代わり、ここでは、イエスがなぜ死んだのかについて、聖書で語られているいくつかの事柄に注目したいと思います。それについては、ほぼ2000年前の混乱があります。それを掘り下げてみましょう...。

マルコによる福音書10:42-45 にも)。 マタイによる福音書20:25-28)には、イエスの宣教の後半に起こった、よく知られた教訓が記されています。ヤコブとヨハネは、まだ何が起こっているのかよく理解していなかったので、イエスが「王」になったときに、イエスの左と右に座ることを約束してほしいと陳情していました。もちろん、他の弟子たちは不愉快な思いをしました。イエスはこの状況を知っていたので、彼らを集めて、イエスの使命の本質と、彼らの使命のあり方を説明しようとしたのです。

これがその文章です。

"しかし、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたは、異邦人を支配することになっている者たちが、彼らの上に主権を行使し、その偉大な者たちが彼らの上に権威を行使していることを知っている。しかし、あなた方の間ではそうではありません。あなた方の中で偉くなる者は誰でも、あなた方の大臣となります。あなたがたの中で偉くなる者は、あなたがたの大臣となり、あなたがたの中で最も偉くなる者は、すべての者のしもべとなる。人の子といえども、仕えられるためではなく、仕えるために来たのであり、また、自分の命を多くの人のための身代金として捧げるために来たのである。"

身代金です。ここで使われているギリシャ語は、λύτρον(ルトロン)といい、λύω(ルオ)の「緩める」「解く」「自由にする」という意味から、贖罪や身代金を意味しています。

神学者の中には、この文章を、十字架の物語の中で、イエスが苦悩と神の本質からの分離感を示す3つのことを言っている文章と組み合わせた人もいます。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」、「それにしても、私の意志ではなく、御心のままにしてください」、「父よ、彼らをお許しください。

これは確かに、イエスがある種のスケープゴートの役割を果たし、父を失望させた人類の代わりに自分の死を捧げた、一種の犠牲と解釈することができます。そのように解釈した神学者もいます。西暦1000年頃のカンタベリーのアンセルムは、そのような主張をする一派のリーダーの一人でした。しかし、私たちはそれが正しい道だとは思っていません。それどころか、間違った道であったために、かなりの損害を被ったと考えています。

新キリスト教の神学では、神が怒ったというのは意味がありません。神は愛そのものです。私たちが神の愛に応えないと、神はがっかりされますか?しかし、怒ることはありません。特に旧約聖書ではそのように見えることもありますが、神の本質は愛なのです。

さらに言えば、イエスの肉体が死んだからといって、父なる神の気分が良くなるわけではないことは、もっとはっきりしているはずです。二人は一人の人間であり、一心同体であることを忘れてはいけません。

むしろ、神の受肉、宣教、死、復活という一連のサイクルは、新しい真理が人類に到達するために行われたものなのです。

天界の秘義1419,

"主は、愛そのもの、あるいは天上のすべての愛の本質と命であり、人類に主のすべてのものを与えることを望んでおられます。" "このことは、人の子が自分の命を多くの人のための身代金として与えるために来たという主の言葉によって示されています。"

アポカリプスの説明 328:15という説明がありました。

"身代金を取る』という言葉は、人々を偽りから解放し、真理によって改革することを意味します。これは『真理の神エホバよ,わたしを身代金に換えてください』という言葉に示されています」。詩編31:5)

イエス様が死なれた理由の一つは、地獄の力に打ち勝つためでした。イエスは生涯を通して悪霊と戦いました。最も明確に描写されているのは、洗礼を受けた直後、荒野で40日間を過ごされた時です。イエス様の十字架の苦しみは、悪に対する最後の戦いであり、イエス様の復活は、悪に対する最後の勝利でした。

すべての人にとって、悪を克服するためには、誘惑や悪との戦いがあります。私たちが個人的に悪と闘うように、キリストは宇宙規模で悪と闘われました。キリストの死はその闘いの結論でしたが、それは敗北ではなく、勝利でした。聖書によると、神が肉と血を受けたのは、「死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼすためであった」とあります。(ヘブライ人への手紙2:14,15)

聖書がイエスの死の理由として挙げているもう一つの理由は、イエスがご自分の人間としての性質と神としての性質を一つにして、「ご自分の中で、二人で一人の新しい人を造る」ことができるようにするためでした(エフェソの信徒への手紙2:14-16を参照してください。 ヨハネによる福音書17:11, 21; 10:30)。

他にも様々な理由が挙げられます。

父のもとに行く」ことができた(ヨハネによる福音書13:3; 14:2, 28; 16:10)。彼は「栄光」を得ることができました(ヨハネによる福音書17:1,5)や「主の栄光に入る」(ルカによる福音書24:26)。彼は「完成された」ことができた(ルカによる福音書13:32)、または「聖なるもの」(ヨハネによる福音書17:19)。

スウェーデンボルグのでは真のキリスト教86と書かれています。

"エホバ神は、人々を救済する目的で、神の真理としてこの世に現れた。贖いとは、地獄を支配し、天界を再編し、そして教会を設立することだった。"

磔にされた時、悪の勢力は勝ったと思った。当時の宗教的、市民的な権力者たちが主導して彼を非難した。彼はあざけられた。群衆は彼に反発した。

イエス様の肉体の死は、このように「身代り」でした。あの拷問と死を受けることによって、イエス様は自分の霊的な力が自然の死を超えていることを示すことができたのです。イエスは、私たちを地獄の支配から解き放ち、新しい教会、私たちが従うことのできる新しい道を確立されたのです。

Nga veprat e Swedenborg

 

真(ほんとう)のキリスト教 #35

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35. ここでメモをつけ加えておきます。

創造を自然のおかげだとしている人が、途方もなく大勢いることで、わたしはあるとき、肝をつぶしていました。

太陽の下にある万物も、太陽の上にある万物も、みんなそうだと言っているのです。何かを見ると、かれらはもっともげに、「これは自然のやっていることでしょう」と言います。それを自然のおかげだとして、どうして神のおかげとしないか、尋ねられたりします。というのも、あるときは神が自然をお造りになったことに合点しながら、見えるものが神によって出来たといっても、自然によって出来たといっても、同じことだと言っているからです。それにたいしては、やっと聞きとれるくらいの声を喉の奥から出して、「神でも、自然でも、同じことさ Quid Deus est nisi natura?」と言います。

かれらは、自然がもとで宇宙が創造されたと思い込み、それが英知から出た考えだと錯覚しているようです。しかも、神によって宇宙が創造されたことを認めている人たちを皆、地面を這いながら、踏みかためた小径(こみち)を急ぐアリに例(たと)えたり、空をとぶチョウのようだと言って、誇らしげに見くだしています。見えないものを見えると言う夢想主義者のドグマだと呼び、「神を見る人はだれもいないが、自然はだれもが見ているんだ」と言います。

(2) こんなふうに考えている人があまりにも多く、呆気(あっけ)にとられていると、わたしのそばに天使がいて、「何を考えているのですか」とたずねられました。わたしは、「自然がみずからの力で存在し、全宇宙の創造主 creatrix だと信じている人が、あまりにも多いことです」と言うと、天使は次のように言いました、

「地獄は全部、そんな人からなっていて、かれらは、サタンとか悪魔とか呼ばれています。サタンは、自然のおかげと思い込んで、神を否定した者のこと、悪魔は、極悪非道(ごくあくひどう)な生きかたをして、神を認める思いを完全に捨てた者のことです。あなたを南西の方位にある学校にお連れしましょう。そこではまだ、地獄に入っていない者がいますよ」と。

その天使は、わたしの手をとって引っぱっていきました。すると小さな家の集まりが見え、そこにいろいろ学校があり、その中央に本部らしい建物がありました。それは黒びかりのする石でできていて、金や銀のガラス状薄板がはめてあり、それがセレナイトまたは透明石膏のように、キラキラひかっていて、さらにピカピカひかる貝殻があちこちにはめてありました。

(3) その建物に近づきノックすると、ドアが開いて、「いらっしゃい」と言う声がし、テーブルから四冊の本をもってきた人が言いました、

「これらの書物は英知の書で、現在ひじょうに多くの人からの賞賛を博しています。フランスでは大勢の者が、この本の英知に賛辞をおくり、ドイツではまた大勢の者が、この本を賞賛しています。オランダでは相当数の者がこの本をほめたたえ、英国ではまた相当数の者が、この本をたたえています」と。また続けて、

「もしお望みでしたら、この四冊をあなたの目の前で、光り輝くよう、お見せしましょう」と言い、その人は自分の名声の輝きを、あたり一面に注ぎこみました。するとその書物がまばゆいばかりに光るではありませんか。しかしそれも、わたしたちの目の前では消えてゆきました。それで、わたしたちは何が書いてあるのか聞きました。その答えでは、内奥の英知は、みずからの知恵の宝庫から出たものだと言い、要約すると、①自然は生命のものか、生命は自然ものか、②中心部 centrum は、広がり expansum からくるか、広がりは中心部からくるか、③自然と生命の中心部と広がりについて書かれてあるとのことです。

(4) こう言って、その人は席につきましたが、わたしたちは、広々とした学校のなかを歩きました。その人はテーブルのうえにローソクをともしていましたが、そこには太陽の光が入らず、夜間の月光しかなかったのです。それに驚いたことには、見えていたローソクが、そこをぐるぐる回って照らしており、ローソクの芯を切っていないので、あまり明るくは照っていないことです。その人が書きものをしているあいだ、いろいろな形象のイメージが、テーブルから壁の方へ向かって飛んでいき、夜の月光では、きれいなインド鳥のように見えます。ところがドアをあけるとどうでしょう。昼間の日の光では、コウモリの羽根をつけた夜鳥に見えるではありませんか。ということは、それが真理のまがいものだったわけで、巧みに一連の理論としてつながってはいても、偽りでつきかためられたものだったのです。

(5) それを見て、わたしたちはテーブルに近づき、いま何を書いているのか尋ねました。かれは、「自然は生命のものか、生命は自然のものか」のテーマが最初だといい、この二つの命題は、両方とも真理であることを確証できるといいました。しかしそれには、心配になることが、一つ隠されているとのことです。つまり自然は生命のもの、生命から出たものであることは証明できても、生命は自然のもの、自然から出たものかどうかは、証明できないとのことです。

それでわたしたちは、心配になることが隠されているとは何のことか、おだやかに尋ねました。するとかれは、自分が自然主義者だと呼ばれること、とくに教職者たちからは、無神論者呼ばわりされ、信者たちからは、頭がおかしいと思われるのが心配だと答えました。教職者も信者も、盲目的に信じているか、思い込みから物事を見ているとのことです。

(6) そこでわたしたちは、真理への情熱から、ある種の憤りを感じて言いました、

「ねえ、あなたは大へんな誤りをおかしていますよ。あなたのもっている物(もの)書(か)きの才能と知恵が、あなたをだましているのです。それに名誉や名声が、あなたの信じてもいないことを信じこませています。人間の精神が、感覚的なものを超えることができるのは、ご存じでしょう。その感覚的なものというと、肉体の感覚器官から心のなかに入ってくるものです。そして人間の精神は高められると、上には生命があり、下には自然があることが分かります。生命とは愛と英知のこと、自然とは、その器で、愛と英知が働いて効果を生み、役立つためのものです。生命と自然は、原理的なものと手段的なものだから、同一のものではありません。光と眼は同一のものだと言えないし、音と耳は一つと言えないのと同じです。

ということで、感覚器官は生命なくしてはありえないし、そのいろいろな形体は、自然なくしてはありえません。人間の肉体は、生命を働かせる有機体でなかったら、いったい何でしょう。人間の肉体は、愛が向くところ、理性が考えるところを生みだしていくよう、個々全体にわたって有機的に形づくられているのです。そして人間の体は自然から生まれ、愛と思考力は生命からくるものなのです。だから、自然と生命は、はっきり分離されたものではないでしょうか。

心の眼をわずか高めにして考えれば分かります。感動したり、考えたりするのは、生命がやっていることです。感動するのは愛であり、考えるのは知恵のやることですが、両方とも生命の働きです。それは、前述したように、愛も知恵も、生命だからです。もし理解力をもう少し高めにすれば、その愛も知恵も、どこかにその源があるはずだと分かります。その源は、〈愛そのもの〉、〈英知そのもの〉であるとともに、〈生命そのもの〉です。これが神で、そこから自然ができています」と。

(7) そのあと、わたしたちは、次の「中心部は広がりのものか、広がりは中心部のものか」のテーマをかれと話し合いました。どうしてこんなことを言い出したかを尋ねると、かれは中心部も広がりも、自然のもの、生命のものであって、一方は他方の起源になっていることを結論として主張したいからだといいます。その意図をつっこんで尋ねると、かれは前と同じように、それはどちらの命題でも確証できることで、ただ自分の評判をおとしたくないため、広がりは中心のもの、すなわち中心部からくるものと言っていると答えました。

「わたしの考えでは、太陽が存在する前に何かがあり、それが広がり全部にわたって存在していたこと、またそれがみずから秩序をもって流れ、中心部に集まったことは知っています」と。

(8) そのとき、わたしたちはまた、憤りのこもった思いで話しかけ、言いました、

「ねえ、ねえ、あなたは頭がおかしいですよ」と。

そう言われてかれは、テーブルから椅子をずらし、びくついた様子で、わたしたちをじっと見ていましたが、にやにやしながらも聞き耳をそばだてていたので、続けて言いました、

「中心部が広がりから始まるなど、少しおかしいのではないでしょうか。中心部とは太陽のこと、広がりとは宇宙のことでしょう。それなら、宇宙は太陽がなくても存在していたことにはなりませんか。自然とそのあらゆる属性は、太陽によって作られ、太陽から大気を通して発出する光と熱に依存しているものでしょう。太陽以前に何があったと言うのですか。

自然とその属性の由来について、次に考えてみましょう。大気にしても、地上の万物にしても、表皮のようなもので、太陽こそ中心です。太陽がなかったら、万物は存在できるはずはありません。はたして一瞬でも存続できるでしょうか。ですから、太陽以前の万物など、どうやって存在しえるでしょう。実存可能だと思いますか。存続とは、永久の実在のことです substantia est perpetua existentia。従って、自然万物が存続するのが太陽によるものなら、その実在についても同じです。このことは、だれもが自分の眼で確かめられます。

(9) あとから出てきたものは、前からあったものによって実在し、存続します。もし表面にあるものが先にあって、中心部があとから出てきたものなら、先にあるものが、後からのものによって存続することになり、秩序の諸法則に反します。あとからのものが先にあるものを生み出したり、外部にあるものが内部を生み出したり、粗雑なものが純粋なものを生み出すことが、どうしてありえるでしょう。だから、広がりをもたらす表面が、中心部を生み出すことはできないのです。これが自然界の法則に反することは、だれでも分かります。

わたしたちとしては、理性的な分析をもって論じているのですが、それも、広がりというものは中心部があってこそ存在するわけで、その逆ではないことを確認するためです。だれでも、まともに考えれば、そんな論証がなくても分かるでしょう。

あなたは、広がりがみずから中心部に流れ集まったと言われます。それなら聞きますが、一つのことが他のためになり、個々全体が人間のためになり、しかも人間の永遠のいのちに役立つようになっているこのすばらしい驚くべき秩序は、偶然にできたのでしょうか。はたして自然が何かの愛から、何かの知恵で、目的をめざし、諸原因を見極め、それなりの秩序で存在できるよう、結果を見通すことがありえたでしょうか。また、はたして人間から天使ができ、それでもって天界が生まれ、しかも天界で永遠に生きるようにすることができるでしょうか。以上をまとめて考えてみるとき、自然が自然によって存在するというあなたの考えは、くずれていきます」と。

(10) そのあと、わたしたちはかれが、第三番目の「自然と生命の中心部と広がりについて」、いまどんなふうに考え、またかつて考えていたかを尋ねました。生命の中心と広がりが、自然の中心と広がりと、同じかどうかということです。

かれが言うには、

「今、とまどっているけれど、生命とは自然内部の活動のことで、人間の生命の本質である愛と英知は、そこからくるものと以前から考えていました。太陽の火は、大気を介してその熱と光で生命を起こしているわけですが、いま死後の人間の生命を耳にして、何かはっきりしなくなってきました。だから心が上下に移動し、上にあるときは、以前には何ら頭に浮かばなかった中心部を認めていますが、下にあるときは、独一の中心部をはっきり見ているのです。生命は、以前は何ら頭にうかばなかった中心部から生まれ、自然は、独一と思われる中心部から生まれます。そして、どちらの中心部にも、その周りに広がりをもっているのです」と。

(11) それにたいしてわたしたちは、次のように言いました。

「結構です。あなたが生命の中心部と広がりから、自然の中心部と広がりを見ておられ、その逆ではないなら、それでいいのです」と。それから伝えたことは、

「天使のいる天界にも太陽があって、それは純粋愛です。この世の太陽のように燃えて見え、その太陽から出る熱によって、天使と人間の意志と愛がうまれ、その太陽から出る光によって、天使と人間の理性と英知が生まれています。

その太陽から出るものは「霊的なもの spiritualia 」と言われ、この世の太陽から出るものは「自然的なもの naturalia」と言って、前者を受ける器になっています。

生命の中心部になっている広がりは、「霊界 mundus spiritualis」と言われ、霊界の太陽によって存続し、自然の中心部の広がりは、「自然界 mundus naturalis 」といって、自然の太陽によって存続しています。

さてそれで、愛とか英知とかを、空間や時間にあてはめて考えるわけにはいかず、むしろそれは状態であることから、天使のいる天界の太陽の周りの広がりは、延長 extensum ではありません。それにたいして、自然の太陽の延長のうちにある広がりは、受ける器に従って存在する生きた主体で、その受ける器も、その主体の〈かたち〉と状態におうじています」と。

(12) そこでかれは、

「この世の太陽、あるいは自然の太陽の場合はどこからくるのですか」と尋ねました。それでわたしたちは、それは天使のいる天界の太陽からくるものだけれど、その太陽は火ではなく、神からまともに発している神愛で、その中に主がましますと言ったところ、かれが目を丸くしていたので、次のように説明しました、

「愛の本質は、霊的な火です。〈みことば〉で「火」というと、その霊的意味では愛のことです。そのため神殿で祭司は、天上の火がその心を満たし、愛を理解できるように祈ります。イスラエル人の場合、幕屋にあった祭壇の火とか燭台の火は、神の愛の表象でしたし、人間や一般の動物がもっている血の熱量(カロリー)つまり生命の熱気は、かれらの〈いのち〉を支えている愛からくるものに他なりません。

従って、人間のもっている愛が高められて熱情になったり、刺激を受けて興奮したり激高したりすると、火がついたように燃えあがり、熱を帯びます。このように人間の場合、霊の熱つまり愛が、自然的な熱を生みだし、顔や関節がほてってくるわけです。以上を見ても、自然界の太陽の火は、〈神の愛〉である〈霊の太陽の火〉からくることがはっきりします。

(13) 前述したように、中心部から広がりが生まれてくるので、その逆ではありません。また天使のいる天界の太陽こそ、生命の中心部で、神からまともに発している神の愛がそれです。神はその太陽のまん中にいらっしゃいます。そして、その中心部の広がりは霊界と呼ばれます。またこの世の太陽は、その霊界の太陽から存在を受け、そこからまた自然界と呼ばれる広がりも生まれるのです。以上のことからも、宇宙は神によって創造されたことが、分かると思います」と。

それから、わたしたちはそこを出ていきました。かれは学校の玄関の外まで、わたしたちを見送りに出てきました。かれはそこで、前よりずっと賢くなって、天界、地獄、神の摂理などについて、わたしたちと話しました。

神の本質としての愛 Amor と英知 Sapientia

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.

Nga veprat e Swedenborg

 

Apocalypse Explained #9

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9. When one knows that all names in the Word signify things, and that the names of the twelve sons of Jacob, or of the twelve tribes, signify all truths and goods of the church in the complex; and in like manner, the names of the twelve disciples of the Lord; and that "Peter," "James," and "John" signify faith, charity, and the good of charity; he can see many arcana in the Word; as for example, why:

The Lord gave the name Peter to Simon, and to James and John the name Boanerges, which means sons of thunder (Mark 3:16-17).

For "Peter," like petra [rock], signifies the Lord as to truth from good, or faith from charity; and "sons of thunder" signify those who from affection, which is of love, receive the truths of heaven. (That "rock" signifies the Lord in respect to truth from good, or faith from charity, see Arcana Coelestia 8581, 10580; in like manner the "stone of Israel," n. 6426; that "thunders" signify Divine truths from heaven 7573, 8914; and "lightning" the splendors thereof, n. 8813; whence thunders were also called "voices," 7573, 8914)

[2] I will here mention some arcana that may be seen by those who are aware that "Peter" signifies faith, and "John" the good of charity. First, why the Lord said to Peter:

I also say unto thee, Thou art Peter, and upon this rock will I build My church; and I will give unto thee the keys of the kingdom of the heavens (Matthew 16:18-19).

It appears from the letter, as if that power was given to Peter, when in fact no power was given to Peter; but it was so said to him because "Peter" signified truth from good, which is from the Lord; and truth from good, which is from the Lord, has all power, thus the Lord has all power from good through truth. (That this is so may be seen illustrated in the small work on The Last Judgment 57.) A second arcanum that may be seen, when it is known that "Peter" signifies faith, is, why the Lord said to him, that:

Before the cock crowed, he would deny Him thrice; which also came to pass (Matthew 26:34).

By these words is signified, that in the last time of the church there would be no faith in the Lord, because no charity; for "cock-crowing," as well as "twilight," signifies the last time of the church (n. Arcana Coelestia 10134); and "three" or "thrice," signifies what is complete to the end (n. Arcana Coelestia 2788, 4495, 5159, 9198, 10127. That the end of the church is when there is no faith, because no charity, see in the small work on The Last Judgment 33-39, seq.).

[3] A third arcanum that may be seen is what is signified by the following words concerning Peter and John:

Jesus saith to Peter, Simon, son of Jonas, lovest thou Me? He saith unto Him, Yea, Lord, thou knowest that I love Thee. He saith unto him, Feed My lambs. He saith to him again a second time, Simon, son of Jonas, lovest thou Me? He saith unto Him, Yea, Lord, thou knowest that I love Thee. He saith unto him, Tend My sheep. He saith unto him the third time, Simon, son of Jonas, lovest thou Me? Peter was grieved because He said unto him the third time, Lovest thou Me? And he saith unto Him, Lord, thou knowest all things; thou knowest that I love Thee. Jesus saith unto him, Feed My sheep. Verily, verily, I say unto thee, when thou wast younger, thou girdest thyself, and walkedst whither thou wouldest; but when thou shall be old, thou shalt stretch forth thy hands, and another shall gird thee, and bear thee whither thou wouldest not. And when He had thus spoken, He saith unto him, Follow Me. Peter, turning about, seeth the disciple whom Jesus loved, following, and he saith, Lord, What shall this one [do]? Jesus saith unto him, If I will that he tarry till I come, what is that to thee? Follow thou Me (John 21:15-22).

What these things signify no one can know unless he knows the internal sense, and knows that "Peter" signifies faith, and "John" the good of charity, thus that "Peter" signifies those in the church who are in faith, and "John" those who are in the good of charity.

That Jesus said to Peter three times, "Lovest thou Me?" and that Peter said three times, "Thou knowest that I love Thee," and that Jesus then said, "Feed My lambs," and "Feed My sheep," signifies that those who are in faith from love, ought to instruct those who are in the good of love to the Lord, and in the good of charity towards the neighbor; for those who are in faith from love are also in truths, and those who from this are in truths, instruct concerning good, and lead to good; for all spiritual good that a man has, is gained and implanted by truths.

(That "lambs" signify those who are in the good of innocence and of love to the Lord, may be seen in Arcana Coelestia 3994, 10132; that "sheep" signify those who are in the good of charity towards the neighbor, n. 4169, 4809; and that "to feed" is to instruct, n. 5201, 6078)

[4] Faith, as it was to be in the first period of the church and as it was to be in the last, is then described by the Lord. The first period of the church is meant by "when thou wast younger," and its last by "when thou shalt be old." That when Peter "was younger he girded himself and walked whither he would," signifies that in the first period of the church men would imbibe truths from the good of charity and would act from freedom; for to act from freedom is to act from the affection of truth from good. "When thou shalt be old thou shalt stretch forth thy hands, and another shall gird thee and lead thee whither thou wouldest not," signifies that in the last period of the church they would no longer imbibe truths from the good of charity, thus would not know them in any other way than as declared by another; and thus would be in a servile state; for a servile state ensues when good does not lead. (That "garments" signify truths, see Arcana Coelestia 1073, 2576, 5319, 5954, 9212, 9216, 9952, 10536; and that therefore to "gird oneself" denotes to imbibe and perceive truths, n. 9952. That to "walk" is to act and live; to act from freedom is to act from love or affection, since what a man loves that he does freely, n. 2870, 3158, 8987, 8990, 9585, 9591. That every church begins from charity, but that in process of time it turns aside to faith, and at length to faith alone, n. 1834, 1835, 2231, 4683, 8094.)

[5] Since, in the last period of the church, faith becomes such that it rejects the good of charity, saying that faith alone constitutes the church and is saving, and not the good of life which is charity, Jesus said to Peter, by whom such faith is here meant, "Follow Me; and Peter, turning about, seeth the disciple whom Jesus loved, following; and he saith, Lord, what shall this one [do]?" By this is signified that faith, in the last period of the church, would turn itself away from the Lord; for it is said of Peter, by whom such faith is signified, that "turning about, he saw;" also that he said of the disciple whom Jesus loved, or of John, by whom is signified the good of charity, "what shall this one [do]?" that is, that he is not anything. But Jesus said to him, "If I will that he tarry till I come, what is that to thee? Follow thou Me." By this is signified that the good of charity will follow the Lord, and will acknowledge Him, even to the last period of the old church, and the first of the new. (That the last period of the old church is called "the consummation of the age," and the beginning of the new church "the coming of the Lord," see Arcana Coelestia 4535, 10622) A fourth arcanum that may be seen is, why the Lord loved John above the rest of the disciples, and consequently why John lay on the breast or in the bosom of the Lord (John 13:23; 21:20); namely, because the good of love was what the Lord saw when He beheld John, who represented and signified that good; since it is that good that constitutes heaven and the church (See the work on Heaven and Hell 13-19). A fifth arcanum is manifest when it is known that John represented the good of love, namely, what is signified by the words of the Lord from the cross to the mother Mary and to John:

When Jesus therefore seeth His mother, and the disciple standing by whom He loved, He saith unto His mother, Woman, behold thy son. Then He saith to the disciple, Behold thy mother. And from that hour the disciple took her unto his own home (John 19:26, 27).

By "mother" and by "woman" is here meant the church, and by "John" the good of charity; and by the things here said, that the church will be where the good of charity is. (That by "woman," in the Word, is meant the church, may be seen in Arcana Coelestia 252-253, 749, 770, 3160, 6014, 7337, 8994; that the like is signified by "mother," n. 289, 2691, 2717, 3703, 4257, 5581, 8897, 10490. That to "take her unto his own home" is that these should dwell together, is evident.)

From this it can now be seen how great arcana lie concealed in the Word, which are laid open to those only who know its internal or spiritual sense. Apart from that sense it cannot be known, moreover, what is signified when it is said:

That the apostles shall sit upon twelve thrones, and shall judge the twelve tribes of Israel (Matthew 19:28; Luke 22:30).

By "apostles" here are meant not apostles, but all truths from good, which are from the Lord; thus by these words is signified that the Lord alone will judge all from truths that are from good, thus that everyone will be judged according to those truths.

  
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Thanks to the Swedenborg Foundation for their permission to use this translation.