338. 使徒たちの信仰は、主イエス・キリストへの信仰以外の何ものでないわけです。それは、かれらが記した手紙の中から、いろいろ引用してみると分かります。ここでは次の箇所だけをあげておきます。
「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる。わたしがいま、肉にあって生きているのは、神のおん子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。
「(パウロは)ユダヤ人にもギリシャ人にも、神にたいする悔い改めと、わたしたちの主イエス・キリストにたいする信仰とを、強く勧めてきた」(使徒20:21)。
「(パウロを)外に連れだして言った、『わたしは救われるために、何をしたらいいでしょう』。かれは言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたも、あなたの家族も救われます』と」(使徒16:30、31)。
「おん子を持つ者は、いのちを持ち、神のおん子を持たない者は、いのちを持っていない。これらのことを、あなた方に書き送ったのは、神のおん子のみ名を信じるあなた方に、永遠のいのちを持っていることを、さとらせるためである」(Ⅰヨハネ5:12、13)。
「わたしたちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人から出た罪人ではないが、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるものだと知って、わたしたちも、イエス・キリストを信じるようになった」(ガラテヤ2:15、16)。
かれらが持っていた信仰は、イエス・キリストにたいする信仰であり、しかもイエス・キリストのみ力によるものでした。だから、前掲(ガラテヤ2:16)のように、「イエス・キリストの(にたいする/を信じる)信仰 Fides Jesu christi」と言ったわけですが、次もそうです。
「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、全て信じる人に与えられるものである。・・・さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:22、26)。
「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰にもとづく神からの義をうけなさい」(ピリピ3:9)。
「ここに、神のいましめを守り、イエスを信じる信仰をもち続ける者たちがいる」(黙示14:12)。
「キリスト・イエスにたいする信仰によって・・・」(Ⅱテモテ3:15)。
「キリスト・イエスにあっては、・・・愛によって働く信仰である」(ガラテヤ5:6)。
以上の引用で、明らかなように、パウロの解釈による信仰こそ、現代の教会でも言われている信仰で、それがどんなものかを示します。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ3:28)。
それは、父なる神にたいする信仰でなく、神のおん子にたいする信仰でした。それはまた、「起源となられる神 in unum a quo」・「理由となられる第二の神 in alterum propter quem」・「媒介になられる第三の神 in tertium per quem」のような序列をもつ三つの神々ではありません。
パウロの言葉の中に、三人格を示す信仰があるかのように教会では信じられてきましたが、それは十四世紀に至るあいだ、少なくともニケア公会議以来、教会は三位の神以外の信仰は認めなかったし、それ以外の信仰を失ってしまったからです。しかも、そのような信仰が唯一無比とされ、それ以外は不可能だと信じられてきました。新約聖書の〈みことば〉の中で、「信仰」というコトバが出てくれば、何が何でも、すぐそのような信仰に結びつけました。その結果、救い主である神にたいする信仰、つまり救いに至る不可欠な信仰は失われ、それと同時に、かれらの教義の中に、いろいろな偽りや、健全な理性に反する逆説(パラドックス)がしのびこんできました。
教会の教義は、全て天界への道、救いへの道を教え示すものですが、それは信仰内容にかかっています。それが前述のように、偽りや逆説におかされてしまったわけです。だから、信仰への従順の面で、理性が納得するような教義を、公(おおやけ)にする必要があります。
従って、パウロが言っている「信仰」(ローマ3:28)は、父なる神への信仰のことではありません。おん子にたいする信仰です。「律法の行い」といっているのも、十戒の実践について言っているのでなく、ユダヤ人に与えられたモーセの律法の行いのことです(それはそれに続くパウロの言葉からも、ガラテヤ2:14、15にある同様の箇所からも分かります)。そのため、現在、信仰は基礎がくずれ、その上にある神殿も倒れています。それはちょうど、一軒の家がずぶずぶと地中へ沈み、その屋根だけが残っているような感じです。