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栄光...それは何ですか?

Ngu New Christian Bible Study Staff, Julian Duckworth (Umshini ohunyushelwe ku 日本語)

スウェーデンボルグは、イエスの地上での生活に関連して、「栄光化」という言葉を使っています。栄光とは、イエスの成長の中で、イエスの内にある神が強化され、もたらされた部分です。これは、誘惑に打ち勝つ勝利を通して行われました。これと平行して、イエスがマリアから受けた単なる人間的な状態をイエスから捨てた「空になる」ことを意味する「exinanition」があります。

この霊的なプロセスを指すだけでなく、「栄光化」は、イエス様が人々を癒し、権威を持って教え、悪魔を追い出し、奇跡を起こしていた時の状態など、神がイエス様の中に強く流れ込んでいた状態を指すこともあります。

十字架につけられた後、霊的にはイエス様のマリアからの遺伝はすべて消えたか、空っぽになり、復活祭の朝によみがえられた時には、イエス様の肉体の物質さえも入れ替わっていました。その後の数日間、イエス様が十字架につけられた後、昇天される前に、物語はイエス様の栄光の中にあるイエス様を示しています。

(Izinkomba: 天界の秘義2288, 6827)

Okususelwe Emisebenzini kaSwedenborg

 

天界の秘義 #6827

Funda lesi Sigaba

  
Yiya esigabeni / 10837  
  

6827. 「モーセは、ミデアンの祭司、義父エテロのヒツジを飼っていた」とは、神由来の律法が、単純な善の真理に宿る人々を、教化することを意味します。「ミデアンの祭司」とは、このような人々がいる教会の善です。その根拠は次の通りです。

「モーセ」とは、神的律法面から見た主を表わします(6752節)。当初、モーセが主を表象する際、〈神由来の律法に属する真理〉から見ていましたが、ここでは、神による律法面から見ています。これは主の人間性が、神的律法そのものになるまでに、主の中に段階的進展があったことを浮き彫りにします。

〈みことば〉全体は、その内奥・最高の意味で、焦点になるのは、ただ主であり、主の栄化だけです。ただし内奥・最高の意味は、人知を超越するため、内的意味の面で、〈みことば〉を解説することが許されます。

その際、テーマになるのは、主のみ国と教会、および教会の設立であり、主が再生に導かれる教会人です。内的意味上、以上に言及できるわけは、人間の再生が主の栄化の表象的イメージだからです(3138,3212,3245,3246,3296,3490,4402,5688節参照)。

② 「飼う」とは、教化するという意味があります(3795,5201節)。「ヒツジの群れ」とは、学ぶ人であり、真理を通して、仁愛の善に導かれる人です(343節)。

また一般的意味での「ヒツジの群れ」は、教会です(3767,3768節)。ここでの教会は、「ミデアン」が意味するとおり、単純な善の真理に漬かっている人からなる教会です(3242,4756節)。

「義父」は、善を意味します。父親から、〈真理に結ばれた善〉が現実化しますが、そのような善の源になる善のことです。ここでの真理は、「モーセ」が表象する神由来の律法に属する真理です(6793節)。「エテロ」とは、その善の正体を示します。「ミデアンの祭司」とは、単純な善の真理に漬かっている人々がいる教会の善です(6775節)。

以上で明らかになるのは、次のとおりです。すなわち「モーセは、ミデアンの祭司、義父エテロのヒツジを飼っていた」とは、単純な善の真理のうちにある人々を、神由来の律法が教化することを指すとともに、「ミデアンの祭司」とは、かれらがいる教会の善を意味します。

  
Yiya esigabeni / 10837  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.