121. [Ⅲ]主は、このようにして、人間だけでなく、天使たちもあがなわれた。
このことは、前節で述べた「主による〈あがない〉がなかったら、天使たちも存続できなかった」ことに続きます。その理由として、前述したことにつけ加えると、次のようです。
① 主が初めてこの世に来られた当時、天界と地獄の中間にある霊たちの世界を、全部いっぱいにするほど、地獄は高みに這いあがって来ました。その結果、最外部と言われている天界を混乱におとしいれるばかりか、中間部天界にも侵入してきて、ありとあらゆる手段で悪影響を与え、主のおん支えがなかったら、絶滅されるほどでした。
このような地獄の蜂起(ほうき)を描いているのが、シナルの地に建てた塔の物語で、その塔のいただきは天に達するほどであったとあります。その試みも、言語の乱れによって禁じられ、人々はちりぢりに散っていきました。その町は「バベル」と言われています(創世11:1-9)。「塔」とか「言語の乱れ」が何のことかは、ロンドンで出版した『天界の秘義 Arcana Caelestia 』に述べられています。
(2) 地獄が、これほどの高みにまで達したわけは何でしょう。主がこの世に来られたころ、全世界は偶像崇拝と魔術で、神から全く離反し、イスラエルの子らが属し、やがてユダヤ人たちも属した教会は、〈みことば〉をゆがめ、冒して、まったく荒廃していました。このような人たちは皆、死んだのち、霊たちの世界に流れていきますが、そこでかれらの数は、ますます増えました。神ご自身が到来し、そのみ腕の力がなかったら、追い出すことができないほどでした。それがどのように行われたかは、一七五八年ロンドンで出版した『最後の審判について De Ultimo Judicio』に記されています。主の到来は、ご在世当時、実現しました。
現在ふたたび、主の到来が実現しました。前述したように、今こそ主の再臨のときです。これは、黙示録のあちこちで、マタイによる福音書(マタイによる福音書24:3、30)、マルコによる福音書(13:26)、ルカによる福音書(21:27)、使徒行伝(1:11)その他で、予告されていた通りです。
第一と第二の到来の違いを言いますと、最初に主が到来されたおりは、偶像崇拝、魔術、〈みことば〉の歪曲(わいきょく)によって地獄の力が増したためですが、第二の到来では、いわゆるキリスト教徒と言われている人たちで、自然主義を吹聴(ふいちょう)する者や、永遠からいます三人格神とか、あがないの成就は主のご苦難によるという、根も葉もない信仰で心を固めて、〈みことば〉をゆがめてしまった人たちが、増えたためです。かれらは、黙示録(12、13章)にある「龍とその二匹の獣(けもの)」です。
(3)② 主はまた、天使たちもあがなわれたわけですが、それが第二の理由になります。つまり、人間一人ひとりだけでなく、天使も一人ひとり、皆主によって悪から遠ざけられ、善のうちに保たれています。天使にしても人間にしても、自分の力で善のうちにいる者はなく、どんな善でも全部、主によるものです。天使たちは、霊たちの世界を足台にしていますから、それが取り去られることは、高座に座っている人の足もとがくずれるようなものです。神のみ前にあっては、天使たちもきよくないことは、〈みことば〉の預言書だけでなく、ヨブ記にもあります。それというのも、〈かつて人間だった天使〉でない天使は、存在しないからです。
本書の最初に、「〈新しい天界〉と〈新しい教会〉の信仰にかんする一般的原理とその細目」のところで述べたことがお分かりでしょう。つまり、
「主がこの世に来られたのは、人間から地獄を取り除くためでした。すなわち、地獄と戦って、これにうち勝ち、征服し、ご自分に服従させるためでした」。
それで、次のことも分かります。
「神エホバがこの世にくだって、人間性をおとりになったわけは、天界にある全てのもの、〔地獄にある全てのもの〕、教会にある全てのものを、秩序づけるためでした。というのは、当時、悪魔すなわち地獄の力が、天界の力にまさっていましたし、地上では、悪の力が善の力にまさっており、罪の全面的な判決と罰が目前に迫っていたからです。神エホバは、この目前に迫る刑罰を、ご自身の人間性を通して、お受けになり Hanc futuram damnationem Jehovah Desu per Humanum suum sustulit、こうして人間と天使をあがなわれました。ここで、主が来られなければ、だれも救われないことがよく分かります。それは現在でも同じで、主が再びこの世に来られなければ、救われる者はだれもいないということです」(前2、3節参照)。