25. ここでメモをつけ加えておきます。
ある日、眠りからさめて、神について深い瞑想(めいそう)に入りました。上を見あげると、天上に明るくきらめく卵形の光を見ました。その光に目をこらしていると、その光は両脇へしりぞいて、周辺に移りました。するとわたしの目に、天界がぱっと開かれ、南側が開いている円形の格好で、天使たちが立っていて、お互いに話しあっていました。何を話しているのか聞いてみたいと、あこがれを抱いていたところ、最初に声色が聞こえましたが、それは天上の愛にみなぎっていました。そのあと話が聞こえましたが、それは〈愛から出る英知〉にあふれていました。
かれらは、「唯一の神」とか、「神との結びつき」とか、「救い」について話していました。それは、口で言い表せないことで、その大部分は、どんな自然的言語の単語にもあてはまりません。ところが天界にあって、何回か天使たちとつきあっているうちに、同じような状態と、同じようなコトバの中で、かれらの話が分かるようになりました。それで、天使たちの話のいくつかを、自然の言語で、理性的に、単語をつかって、何とか表現してみようと思います。
(2) かれらは神存在は、〈唯一・同一・不可分そのもの〉であると言っていました。それを霊的概念で説明していましたが、神が多数にわかれ、そのおひとりおひとりが、神であることなど、不可能であると言っています。
神は唯一 Unum、同一 Idem、それ自身としてある方 Ipsum、不可分な方 Individuum ですから、多数の神があって、それぞれの神が、みずからの存在をもとにして、個別的に、自分自分の考えをもつことは不可能です。
たとえ多神がいて、それぞれ同意しても、同心同意の神が多数存在しているわけで、唯一の神にはなりません。同心同意とは、多数の同心同意ですから、各自が自分をもとにし、自分を通して同意しても、唯一の神にはならず、複数の神ということになります。
かれら天使たちは、「神々」を口にすることができないのです。思考の源になっている天界の光とか、話しコトバをつつんでいるオーラが、それに反対するからです。かれらは、「神々」を口にし、そのおのおのが、みずから位格(ペルソナ)であると言いたくても、口からそれを発しようとする努力もくずれ、「唯一の方」、「唯一の神」になってしまいます。
また、神は〈みずからのうちにある存在 Esse in se 〉であって、〈みずからに由来する存在 Esse a se 〉ではないと、つけ加えていました。というのは、〈みずからに由来する〉というと、先在する他者によって、みずから存在することになるからです。
だから「神よりの神 Deus a Deo」はありえないことになります。それは、神よりのものは、「神 Deus」と言われるより、「神的なもの Divinum 」と呼ばれるはずだからです。従って、「神よりの神」とか、「永遠のむかしから生まれた神よりの神」とか、「永遠のむかしから、神より、神を通して、発出された神」といっても、天界からの光によって出てくるコトバではないから、何のことか分かりません。
(3) ということで、神的存在 Divinum Esse があるとすれば、それはみずからのうちにある神のことで、両者は同じことです。それが、単純に同一である方 Idem simplex ではなく、無限に同一である方 Idem infinitum、つまり永遠のむかしから、永遠にいたるまで同一の方であるとのことです。それは、どこでも同一の方、だれにとっても同一の方、だれのうちにあっても同一の方です。それにたいし、多様なもの、可変的なものは全て、受け入れる側にあるわけで、受け入れる側の状態がそうさせます。
神的存在は、「みずからのうちにある神 Deus in se 」のことで、「それみずからとしてある方 Ipsum 」であることを説明いたしましょう。
神は、それみずからとしてある方です。というのは、〈愛そのもの〉、〈英知そのもの〉であるとともに、〈善そのもの〉、〈真理そのもの〉だからですが、そのため〈いのちそのもの〉でもあります。以上は、「神のうちにあって、それみずからとしてある方 Ipsum in Deo」でなかったとしたら、「それみずからとしてある方 Ipsum」に関係がないから、天界にもこの世にも、存在しないことになります。
全てのものは、「みずからの起源で存在する方 Ipsum ex quo est 」からその性格を受けており、その方にたいしては、それぞれの性格に応じて、関係を保っています。「それみずからとしてある方」は、神的存在 Esse Divinum であって、場所に限定されず、しかも、各自の受け入れに応じて、場所に限定されているもののうちに、存在しています。
というのは、愛と英知、善と真理、さらに〈いのち〉は、神のうちに、それみずからとして存在しており、神ご自身でもありますから、場所とか、場所から場所へとかわる移行では、説明できる方ではありません。ですから遍在 Omnipraessentia なのです。だから主は、「かれらのまん中にいます」とか、「主みずからは、かれらのなかに、またかれらは、主のうちにいる」と言われているのです。
(4) みずからのうちに存在する方がどんな方なのか、だれも把握することができないからこそ、その方が、本質上どんな方かが見えてきます。それは天使がいる天界にあって、上から出る英知の光であり、愛の熱です。〈主ご自身が太陽である〉と言っているのではなく、神の愛と神の英知が、主ご自身の周りを取り巻くようにして発出し、それが天使たちの前で、太陽のように見えます。
太陽の中にまします主ご自身は「人間」です。それは、源になっている神性 Divinum の面でも、神人性 Divinum Humanum の面でも、わたしたちの主イエス・キリストです。というのは、愛そのもの、知恵そのものにまします主ご自身こそ、ご自身にとっては、父よりの霊魂 Anima a Patre であるともに、みずからのうちに生命をもつ〈神のいのち〉だからです。
一人ひとりの人間の場合は違います。人間の霊魂には、〈いのち VitaーV は大文字〉がありません。あるのは〈 いのち Vita 〉を受ける器です。主はそれを教えておられます。
「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14:6)と。また、
「父がご自分のうちにいのちをもっておられるように、子にもまた、自分のうちに、いのちをもつことをお許しになった」(ヨハネ5:26)と。
〈ご自分のうちのいのち〉とは、神 Deus のことです。天使たちはさらにつけ加えて、以上のことから、神は唯一・同一・自存・不可分の方として、多数存在することはありえないし、もしそんなことがあれば、明らかに矛盾になること、そしてそれは、ある程度の霊的光があれば感じとれるものだと、言っていました。