Komentar

 

みんなのための予言。あなたのための予言

Po Jared Buss (Strojno prevedeno u 日本語)

Jesus and Nicodemus, By Henry Ossawa Tanner - idlespeculations-terryprest.blogspot.com, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10980764

旧約聖書を通読すると、その多くが主の降臨に関する預言で構成されていることに驚かされるかもしれない。最も深いレベルでは、旧約聖書全体が、来るべき主について書かれているのだ(参照)。 ルカによる福音書24:27). なぜ御言葉の多くがこの話題に費やされているのだろうか?主はご自分の民に、主が自分たちのところに来られたときに何が起こるかを考えてほしかったようだ。

私たちはちょうどクリスマス・シーズンに入ったばかりで、主がずっと前になさった降臨を祝う準備をしているわけだが、新教の教えの一つは、主の降臨は現在進行形であるということだ。主は、私たち一人ひとりに生まれるのを待っておられる。私たちが主を受け入れるとき、つまり主を私たちの神と認めるとき、それが主の初臨なのである(真のキリスト教766). そして時が経つにつれて、私たちの主への認識は変化し、深まることがある。そうなれば、主は再び私たちの前に現れる:主は新しい方法で私たちの意識に入って来られる。

つまり、主の降臨に関する預言はすべて、はるか昔に起こったことに関するものであり、同時に、私たちが受け入れる主に関するものでもあり、主を受け入れるときに私たちの霊魂の中で起こることに関するものでもあるのです。繰り返しになるが、これは御言葉がよく語っていることだ。御言葉を見るとき、そして御言葉にどれだけの預言が含まれているかを見るとき、主が私たちに主の降臨について考えることを望んでおられることがよくわかる。私たちに近づいて来られる神とは誰なのか?主が近づいて来られるとき、それはどのような感じなのだろうか?もし私たちが、神の本当の姿とは違うものを期待しているなら、神を迎える準備はできていないだろう。

以下では、主の降臨に関する3つの異なる預言を探っていこうと思う。どれも全く異なるもので、色調も違えば、主の異なる側面を強調している。これらの預言を読みながら考えていただきたいことが2つある:

1) 主の降臨はいつも同じように感じられるわけではないということ。主は、私たちの人生のさまざまな時点で、さまざまな方法で私たちの前に現れる。主の降臨のトーンは、私たちの内面で何が起こっているかに大きく関係している。では、あなたは今、どんなアドベントを必要としているのだろうか?

2) また、主はさまざまなものであるが、一つの主でもある。私たちは主の強さとか愛とか、何に焦点を当ててもいい。しかし、主を本当に知るためには、主が愛であり、強さであり、その他多くのことを同時に持っておられることを理解する必要がある。

最初の預言 イザヤ書42:1-7

この預言を通して、主は地上にお生まれになるときに身にまとわれる人間性について語られている。預言の最初の行で言及されている「しもべ」とは、その人間性のことである。天界の秘義2159).

この預言は、主の優しさと憐れみを強調している。ここに描かれているメシアが、福音に啓示されているイエス・キリストと同一人物であることは容易に理解できる。この預言によれば、主は泣き叫んだり、声を荒げたりされない(イザヤ書42:2). 福音書の中で、イエスは時折叫んでいる(ヨハネによる福音書7:28, 37; 12:44), しかし、ほとんどの場合、彼は驚くほど忍耐強く、控えめで、優しい。預言によれば、主は異邦人に正義をもたらし、盲目の目を開き、囚人を牢獄から連れ出すという。イザヤ書42:1, 7). これは、癒し手、救い主として私たちの前に現れる神の姿である。心が痛むとき、わだかまりがあるとき、慰められたいとき、希望が持てるものを示されたいときに必要な神である。主は、まさにこれらのことをするために私たちのところに来られる。預言によれば、主は「民への契約」、「異邦人への光」として与えられる(イザヤ書42:6). 彼は光である。彼の存在は、天国が私たちの手の届くところにあることを約束してくれる。

この預言で特に興味深いのは、主は傷ついた葦を折らず、煙の出る亜麻を消さないという記述だ。これは文字通りの意味で、主は葦のような些細なものであっても、すでに傷ついたものであっても、何一つ壊さないということだ。これは、主が私たちをどのように扱われるかを表している。私たちの中には、傷ついたものがたくさんある。欠陥のある動機、正しくない考えなどだ。しかし、主はそのようなものを壊されるのではなく、真理と善の方向へと曲げてくださると言われている(天界の秘義25). 主は、私たちのめちゃくちゃな部分にも優しく接してくださる。自分を許してくれる神、何があっても自分を愛してくれる神。主はまさにそのような方なのだ。この預言は、主が私たちのもとに来られる方法の一つを述べている。

この最初の預言についての考察の締めくくりとして、主の優しさと私たちへの敬意について語った『天の教典』の一節を紹介しよう。この箇所はまた、こうした神の特質と、私たちを傷ついた状態に保とうとする地獄の振る舞いを対比させている:

主の臨在は自由を伴い、一方は他方に従う......。一方、悪霊による地獄の流入は、力と支配への衝動によるものである。彼らの全意図は、その人を無にし、自分自身をすべてとするところまで服従させることである......。その結果、主が人を彼らのくびきと支配から解放しようとするとき、葛藤が生じる。しかし、ひとたび自由にされると、つまり再生されると、彼は天使たちを通して主に優しく導かれ、くびきも支配もまったく存在しなくなる。(天界の秘義905)

第二の予言 イザヤ書59:15-19

この第二の預言は、主と地獄との戦いについてである。ここで示される主のイメージは、私たちが『地獄の黙示録』で与えられたものとはまったく異なる。 イザヤ書42 預言:ここでは、主は戦士であり、贖い主であることが明らかにされている。この預言の背景には、主の民が陥った混乱についての長い記述がある。

主は正義がないのを見て、不愉快に思われた(イザヤ書59:15).

主は、御自分の民が孤独であること、つまり、彼らのために執り成す者が誰もいないことを見抜かれた。「御自身の腕が救いをもたらした」(イザヤ書59:16).

戦いのために鎧をまとい、外套のように熱心をまとわれた(イザヤ書59:17).

私たちは主を戦士と考えたがらないが、それは少なくとも、地獄が実際にどれほど恐ろしいものかを考えたがらないからでもある。しかし、悪は現実に存在する。外の世界でも、自分自身の中でも、悪に遭遇し、害を与えることだけを意図する霊を見ていることに気づくとき、そのときこそ、この預言に啓示されている主が必要であることに気づくのかもしれない。敵を失いつつあるとき、自分のために戦ってくれる味方の到来ほど素晴らしいものはない。彼は地獄よりも強い。それは彼が誰であるかの一部であり、それはとても重要なことなのだ。

この預言では、主が復讐を求めておられることが語られている。イザヤ書59:17, 18): しかし、それは見せかけに過ぎないことを理解する必要がある。真実は、主は地獄の民さえも愛しておられ、決して復讐を求めることはない。しかし、主がご自分の民を守るために出て行かれると、地獄の民は主が復讐のために出て来られたように感じる。主の熱意には一種の獰猛さがある。天の教典』には、主がご自分を武装される義の胸当てとは、「忠実な人々を地獄から救い出す熱意と、人類を救うという神の愛」を表していると書かれている(黙示録の説明 577:3). 考えてみてほしい。もし、あなたの愛する人が地獄にいる--文字どおり地獄にいる--にもかかわらず、その人が地獄から出たがっていて、あなたがその人を地獄から連れ出すことができるとしたら、あなたはまた、熱意を身にまとい、彼らをおびえさせるような表情で地獄に会いに行くのではないだろうか?

預言によれば、主が「細い川のように入って来られるとき、主の霊は主の内に旗を掲げる」(イザヤ書59:19). スタンダードとは旗印を意味し、戦いの真っ只中にいるとき、旗印の到着は助けが来たことを示す。主がその旗を持って私たちのところに来られるとき、主は細い川のようである。主の力は急流のように私たちに注がれる。主が地獄に対して持っておられる力は圧倒的である。私たちは、自分がどれほどそれを必要としているかを知るまでは、それがどれほど必要なのか見当もつかない。新教の天の教義にはこうある:

地獄の性質と、主が来られた時に地獄がどれほど高く昇り、霊の世界全体を水浸しにしたか、また、主が地獄を打ち落として散らし、その後、天とともに秩序に戻すために用いられた力を知る者がいれば、その行いが完全に神によるものであったことに驚嘆の声を上げるに違いない。(真のキリスト教123)

第3の予言 マラキ書3:1-3

この預言では、まず「使徒」について、次に「契約の使徒」について語られる(1節)。使徒とは、主の到来をユダヤに準備させたバプテスマのヨハネのことである(参照)。 ルカによる福音書7:27; 真のキリスト教688). 契約の使者は主ご自身である。預言によれば、主は「突然、御自分の神殿に来られる」(マラキ書3:1). 主の神殿とは、主の体、すなわち、主が地上にお生まれになったときに身にまとわれた人間性のことである(以下を参照)。 ヨハネによる福音書2:21; 啓示による黙示録解説882).

この預言の次に書かれていることは、ちょっと挑戦的だ:「しかし、だれが主の来られる日に耐えることができようか。しかし、だれが主の来られる日に耐えることができようか。(マラキ書3:2). その意味するところは、主の降臨は恐ろしいということである。その理由は、主が「精錬する火のようであり、洗濯する石鹸のようだから」(マラキ書3:2). 精錬の火は金属を清めるために使われ、石鹸は-明らかに-物を清めるために使われる。清められ、清められるべきものは、主の民である。「主はレビの子らを清め、金や銀のように清められる」(マラキ書3:3). 天の教義によれば、レビの子らは主の霊的教会に属する人々を象徴している(アルカナ・コエレスティア 8159:2, 9293:6). 私たちは主の霊的な教会にいるかもしれないし、少なくともそうなろうとしているかもしれない。主が火のように私たちを清め、石鹸のように私たちを清めるために来られるという考えは挑戦的だ。

このような口調の預言は、主の降臨に備える私たちにとって、おそらく最も手を伸ばしにくいものだろう。クリスマスの時期にこのような預言を聞きたくないかもしれない。しかし、実際のところ、私たちと主の新たな降臨の間に立ちはだかるのは、ほとんどの場合、私たち自身なのだ。精錬の火は誘惑の象徴だと言われている(アルカナ・コエレスティア 8159:2). 主は私たちを誘惑されることはないが、私たちの近くに来られると、誘惑に耐える力を与えてくださる。だから、主の到来が霊的危機の引き金になることもある。主がここにおられる今、私たちは以前には対処できなかったことに対処する準備ができている。つまり、何か痛みを伴うものが明るみに出るのだ-そしてそれは癒しのプロセスの一部なのだ。主が私たちの近くに来てくださることは、その精錬の火の中に入っていくような感じがするかもしれない。主の愛は明るく燃え、私たち自身のギザギザを照らし出す。それはプロセスの一部だ。そしてそれはプロセスの一部なのだ。もし私たちが主を受け入れようとするなら、私たちは喜んで変えられる必要がある。

しかし、他の預言書で明らかにされている主の他の側面を忘れてはならない。そう、主は私たちに変わることを求めておられる。そして、そう求めておられるときでさえ、主は私たちのために力を尽くして戦っておられ、私たちの心が持ちきれないほどの愛で私たちを見つめておられるのだ。主は多くのものを持っておられる。ワンダフルであり、助言者であり、神であり、力ある者であり、永遠の父であり、平和の君である。イザヤ書9:6).

[2024年12月1日、ピッツバーグ新教会で行われた説教より引用]。

Iz Swedenborgovih djela

 

真(ほんとう)のキリスト教 #123

Proučite ovaj odlomak

  
/ 853  
  

123. [Ⅳ]あがないは、純粋に、神のみわざであった。

主がこの世に来られたとき、地獄はどんなふうだったでしょう。また、霊たちの世界全体にも、地獄がどれほど幅をきかしていたことでしょう。主は、この霊界を、天界ともども、整理なさいました。それを知れば、以上のことは全部、神のみわざ以外のなにものでもないと、感嘆しないわけにはゆきません。まず、地獄の様子はどうだったでしょう。そこには、世界の創造以来、邪悪な生活とウソを信じて神から離反した、巨万の数にのぼる人間がいました。主がこの世に来られたとき、霊たちの世界全体にたいし、地獄がどれほど幅をきかしていたかは、前節で述べました。主が最初この世に来られたころ、その有様がどんなだったかは、〈みことば〉の文字の意味には啓示されていませんから、だれも知りません。

しかし、主が再びこの世に来られたときの様子は、わたしが目撃するのを許されたため、そこから以前のことも、結論づけることができます。これについては、ロンドンで一七五八年に出版した小著『最後の審判について』に記されています。それには、主が地獄を追い出し、消滅されたときのみ力についても記しています。その本の詳細は、ここに書き移しの必要はないでしょう。現存していることだし、ロンドンには、印刷したものが、まだたくさん残っています。それを読めば、だれでも、それが全能の神のみわざであることが、はっきりします。

(2) 第四番目の問題として、主がどのようにして、その後、天界と地獄の全体を整理なさったかですが、それについて、わたしはまだ記していません。というのは、天界も地獄も、その整理は、最後の審判以来今日まで、ずっと続いていますし、現在でもそれが続いているからです。本書を出版したあと、もし要望があれば、出版するつもりです。

わたし自身について申し上げますと、これに関しては、主がもっておられる神としての全能を、日々、面前に見ましたし、見ております。

ただしこれも、地獄に関していうと、〈最後の審判そのもの〉であり、天界に関していうと、〈あがないそのもの〉です。この二つは、はっきり違っていますが、それが見えれば、〈みことば〉の預言の象徴に隠されつつも、いろいろな相応を通して、理性の光に照らされる記述も、たくさん見えてくるに違いありません。

(3) 以上のような神のみわざについては、比喩で申し上げる以外にはありませんが、それもわずかです。例えば、槍や盾や剣や大砲や小銃で武装し、戦略と狡智にたけた将校や指揮官に率いられた世界の全民族からなる軍勢に、戦いをいどむようなものです。地獄というところは、われわれの世界にない、はるかにすぐれた戦術がたくさんあります。かれらは、それを使って互いに戦い、天界からやってくる者を攻撃したり、だましたり、取り巻いたり、悩ましたりします。

(4) 主が地獄と戦われる様子は、ほんのわずかですが、全世界にいる野獣との戦いにくらべられます。野獣を殺したり馴らしたりすることによって、〈主にある人〉に近づいて、襲ったり、噛みついたりしないようにすることです。それは、あるケモノが脅迫しようと頭をつき出しても、眼前でハゲタカが心臓を突くほど暴れるのを感じて、すぐ引っ込めるのに似ています。〈みことば〉で野獣とは、地獄の霊のことです。マルコによる福音書(1:13)で、主が四十日のあいだ共におられたという野獣は、地獄の霊のことです。

(5) それはまた、海岸が大津波で、あちこちの堤防を壊し、村や町になだれ入るのを防ぐのに似ています。主が地獄を征服されたのは、「黙れ。静まれ」(マルコ4:3839マタイ8:26ルカ8:2324)と言って、湖をしずめられたのに似ています。「海」とは、その他多くの箇所でそうですが、地獄を意味します。

(6) 主は現在でも、再生した人一人ひとりのもとで、同じ神のみ力で、地獄に抗して戦っておられます。地獄は、悪魔的脅かしで人に攻撃を加えてきますが、主がこれに抵抗し、静められない限り、人は必ず、負けてしまいます。地獄は怪物人間のようであり、〈みことば〉にもあるように、巨大なライオンのようです。従って、主がこのライオンや怪物を、手枷(てかせ)・足枷(あしかせ)でしばってくださらないなら、人は、ひとつの悪から他のひとつの悪へと翻弄(ほんろう)され、やがてみずから、もっと多くの悪の中に落ちこんでいきます。

  
/ 853  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.

Loading…
Loading the web debug toolbar…
Attempt #