真(ほんとう)のキリスト教 #0

By Emanuel Swedenborg

Studere hoc loco

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〈新しい天界〉と〈新しい教会〉にあまねく通じる神学真(ほんとう)のキリスト教

Tabula contentorum
〈新しい天界〉と〈新しい教会〉の信仰 1-3 [Ⅰ]神が存在し、その神がひとつであることは、聖書全体と、キリスト教世界にある教会の教義が、教えているところである。 6-7 [Ⅱ]人間の魂には、神からくる一般的流入があって、それが神の存在と、神がおひとりであることを、分からせてくれる。 8 [Ⅲ]従って、全世界を見わたしても、神の存在を認め、その神がひとつであることを教える宗教か、それを分からせる健全な理性をもっていない民族はない。 9-10 [Ⅴ]この世にある多くのことから、人間は理性でもって、神が存在し、その神がおひとりであることを、望みさえすれば、感じ取ることも、結論づけることもできる。 12 [Ⅵ]神がおひとりでなかったら、全宇宙を創造・維持することはできない。 13 [Ⅶ]神を認めない人は、教会から除名され excommunicatus 、罰せられる damnatus。 14 [Ⅷ]ひとりの神でなく、多数の神を認めている人は、教会とは関係がない。 15 [Ⅲ] 神は、〈みずからのうちに存在する方 Esse in se 〉であるとと もに、〈みずからのうちに実在する方 Existere in se 〉である。 21-22 [Ⅳ] みずからのうちに存在し実在する神は、みずからのうちに存在し実在する、もうひとり別の神を生みだすことはできない。従って、同じ本質をもつ別個の神はありえない。 23 [Ⅴ]むかしも今も、神を複数にするのは、神存在がわかっていないからである。 24 [Ⅰ]神は、みずからのうちに存在し実在される方で、宇宙万物の存在と実在の源であるから、無限である。 28 [Ⅱ] 神は、世界が始まる前、つまり空間と時間が存在する前にあった方として、無限である。 29 [Ⅲ]神は世界ができたあと、空間や時間を超えながらも、空間や時間のうちにまします。 30 [Ⅳ]神の無限は、空間にかんしては無辺 Immensitas であり、時間にかんしては永遠 Aeternitas である。とは言え、神の無辺には空間はなく、神の永遠には時間はない。 31 [Ⅴ]理性が照らされれば、この世にある多くのものから、創造主である神の無限を見ることができる。 32 [Ⅵ]被造物は全て有限である。そして有限なものは器となって、無限な方を受けとめ、人間の場合は、無限な方のイメージをやどしている。 33-34 [Ⅰ]神は、愛そのもの、英知そのもので、この愛と英知こそ、神の本質である。 37 [Ⅱ]神は、善そのもの、真理そのもので、善は愛に、真理は英知に属するものである。 38 [Ⅲ]神は、愛そのもの、英知そのもので、そのため〈いのち〉そのも の、みずからのうちにある〈いのち〉である。 39-40 [Ⅳ]神のうちにある愛と英知は、ひとつになっている。 41-42 [Ⅴ]愛の本質は、自分以外の他の者を愛し、かれらと一体になり、かれらを心から幸福にしたいと願うことである。 43-45 [Ⅵ]宇宙創造の原因は、この神の愛で、それがまた、神の宇宙維持の原因でもある。 46-47 [Ⅰ]全能・全知・遍在は、〈神の愛〉からくる〈神の英知〉の表われである。 50-51 [Ⅱ]秩序が何か分からないなら、全能・全知・遍在は分からない。それはまた、神こそ秩序であり、創造と同時に、宇宙とそこにある個々全体に秩序を与えられた方であることを知ることである。 52-55 [Ⅲ]神の全能は、宇宙とそこにある個々全体にわたり、神の秩序の法則に従って働いておられる。 56-58 [Ⅳ]神は全知にまします。つまり個々全体をその細微にいたるまで感じとり、見極め、知りつくされる。それは秩序に従って動くものだけでなく、秩序に反して動くものにたいしてもそうである。 59-62 [Ⅴ]神の遍在は、みずからの秩序にある最初のものから、最高のものにいたるまで及んでいる。 63-64 [Ⅵ]人間は、神の秩序の〈かたち forma〉として造られている。 65-67 宇宙の創造について 75-80 第二章 81-84 [Ⅱ]この方は、神の真理としてこの世に下ってこられた。この真理こそ〈みことば〉で、神の善と分離できない方である。 85-88 [Ⅲ]神は、みずからの神聖な秩序にもとづいて、人間性をとられた。 89-91 [Ⅳ]神がこの世に来られるとき、とられた人間性こそ、神のおん子である。 92-94 [Ⅴ]主はあがないのみわざを通して、みずからを、義 Justitia とされた。 95-96 [Ⅵ]主は、そのみわざを通して、みずからをおん父に合体された。それは、おん父としてみずからをご自身に合体されたことであると同時に、神の秩序によるものである。 97-100 [Ⅶ]神は、このようにして人となられた。それは、一人格の神人 Deus Homo in una persona である。 101-103 [Ⅷ]この一致合体に向かうことこそ、主の自己卑下であった。そして一致合体それ自身は、主の栄化の状態を表わす。 104-106 [Ⅸ]それ以降は、キリスト信者の場合、神であり救い主である主を信じ、主だけに向かわない限り、天界に入れない。 107-108  まとめ 109 [Ⅰ]あがないそのものは、地獄を征服し、天界を整え、それによって、新しい教会を準備することであった。 115-117 [Ⅱ]このあがないがなかったら、人はだれも救われないし、天使も完全無欠な状態にとどまることができなかった。 118-120 [Ⅲ]主は、このようにして、人間だけでなく、天使たちもあがなわれた。 121-122 [Ⅳ]あがないは、純粋に、神のみわざであった。 123 [Ⅴ]あがないそのものは、神が人間として受肉されない限り、成立しなかった。 124-125 [Ⅵ]十字架の苦難は、主が最高の預言者として耐えられた、最後の試練であると共に、主の人間性が栄化されるため、おん父の神性と一致合体されるための手段であったが、あがないではなかった。 126-131 [Ⅰ]聖霊は神の真理のことである。神のみ力は、ひとりの神から発しているが、そのひとりの神に三一性があり、それが神であり、救いの主である。 139-141 [Ⅲ]神のみ力とおん働きとは、聖霊の派遣のことで、教職者の場合は特に、照らしと教導がある。 146-148 [Ⅳ]主は、主を信じる人のなかで、そのおん力を働かせてくださる。 149-152 [Ⅴ]主は、おんみずからを源とし ex Se、父によって a Patre、働かれるが、その逆ではない。 153-155 [Ⅵ]人間の霊とは、人間の心のことで、その心から出てくるものは、みな霊の働きである。 156-157 まとめ 158 [Ⅰ]神の三一性とは、父・子・聖霊のことである。 164-165 [Ⅱ]父・子・聖霊の三一性は、ひとりの神にある三つの本質的なもの tria essentialia で、それは人間の場合では、霊魂・肉体・活動のように、ひとつになっている。 166-169 [Ⅲ]この世が造られる前には、この三一性はなかった。世界の創造のあと、神が受肉されると同時に、神・あがない主・救い主である、主イエス・キリストのうちに、その三一性が計画され、実現された。 170-171 [Ⅳ]世界創造の前、しかも永遠のむかしからまします神の三人格説は、複数の神を考えており、口では唯一の神を告白していても、実体は三人格である点、変わらない。 172-173 [Ⅴ]神の三人格説は、使徒の教会にはなかったが、ニケア公会議には 174-176 [Ⅵ]ニケア信条とアタナシオス信条にある三位一体論から生まれた信仰は、キリスト教会の全体をゆがめてしまった。 177-178 [Ⅶ]ダニエル書、四福音書、黙示録で主が預言されたこと、つまり、 179-181 [Ⅷ]だから、主によって新しい天界と新しい教会が起こされなかったら、肉という肉は助からない。 182 [Ⅸ]人格(ペルソナ)がそれぞれ神であるとする、アタナシオス信条による三位一体説から、神についても種々雑多な異端が出てきたが、これらは幻想であり、奇型である。 183-184 第四章 189-192 二. いままで、〈みことば〉の霊的意味については、知られていなかった。 193 [Ⅰ]霊的意味とは何か。 194 [Ⅱ]〈みことば〉には、個々全体にわたって、霊的意味がある。 196-198 [Ⅲ]〈みことば〉が神の霊感によるもので、その単語の一つひとつが神聖なのは、霊的意味があるためである。 200 [Ⅳ]〈みことば〉の霊的意味については、いままで知られていなかった。 201-207  [V] 主からくる純粋な真理のうちにある者を除いて、〈みことば〉の霊的意味が分かっている人は、まだいない。 208  [VI] 霊的意味から理解する〈みことば〉のすばらしさ。 209 三.〈みことば〉の文字上の意味は、〈みことば〉の霊的・天的意味の基 盤・器・支えである。 210-213 四.〈みことば〉の文字上の意味のうちに、神の真理が充満し、神聖さと力とをそのまま保っている。 214-216 [Ⅰ] 黙示録(21:17-21)にある新しいエルサレムの土台になっている宝石は、〈みことば〉の文字上の意味による真理を表している。 217 [Ⅱ] アーロンのエポデにあるウリムとトンミムは、〈みことば〉の文字上の意味にある善と真理を表わしている。 218 [Ⅲ] ツロの王がいたというエデンの園にある宝石も、同じような意味を持っている。 219 [Ⅳ] 幕屋のたれ幕、天幕、柱などは、〈みことば〉の文字上の意味の中にあるような、最外部にある真理と善を表わしている。 220 [Ⅴ] 同じく、エルサレムの神殿の外部にも相応がある。 221 [Ⅵ] 〈みことば〉の栄光は、主のご変容で表されている。 222 [Ⅶ] ナジル人は、最外部にある〈みことば〉の力を表わしている。 223 [Ⅷ] 〈みことば〉の筆舌を超えた力について。 224 五. 教会の教義は、〈みことば〉の文字上の意味から汲みとられ、その意味で確認されなくてはならない。 225 [Ⅰ] 〈みことば〉は、教義なくしては理解できない。 226-228 [Ⅱ] 教義は、〈みことば〉の文字の意味から汲みとられ、その意味で確かめられなくてはならない。 229-230 [Ⅲ]  教義上の純粋真理、すなわちみことば>の文字上の意味における純粋真理は、主によって照らされた人でなければ、分からない。 231-233 十. 異端は、〈みことば〉の文字上の意味から出てくる。それで心を固めてしまうと罪になる。 254-260 十一. 主はこの世にあって、〈みことば〉の全てを完成させ、それによって〈みことば〉となられた。つまり究極の最外部にいたるまで、神の真理となられた。 261-263 十二. 現在この世にある〈みことば〉以前にも〈みことば〉があったが、消失してしまった。 264-266 十三. 〈みことば〉によって、教会外の人たちにも光が存在しているが、かれらは〈みことば〉を持っていない。 267-272 十四. 〈みことば〉がなかったら、だれひとり、神・天界と地獄・死後の生 命はおろか、主さえ知ることはない。 273-276 一. 十戒は、イスラエルの教会では、神聖そのものであった。 283-286 二. 十戒には、文字上の意味では、信仰と生活にかんする共通の掟が含まれ、霊的・天的意味では、普遍的にすべての事柄が含まれている。 287-290 三. 第一戒「わたしの顔のまえには、他の神があってはならない。」 291-296 四. 第二戒「あなたの神『エホバ』の名を、みだりにとなえてはならない。エホバはその名をみだりにとなえる者の罪を、見のがされることはない。」 297-300 五. 第三戒「安息日を聖とすることを覚えておくこと。六日間は働いて、自分のわざを全部なしとげなさい。ただし、第七日目は、あなたの神エホバの日である。」 301-304 六. 第四戒「あなたの日を長くし、地上のさいわいを得るため、あなたの父と母を敬いなさい。」 305-308 七. 第五戒「あなたは殺してはならない。」 309-312 八. 第六戒 「あなたは、姦淫してはならない。」 313-316 九. 第七戒「あなたは、盗んではならない。」 317-320 十. 第八戒「あなたは隣人に対して、偽りの証言をしてはならない。」 321-324 十一.  第九・十戒「あなたの隣人の家のものをほしがってはならない。あなたの隣人の妻、召使いと下女、お牛とロバ、それから隣人に属するものは、どんなものでもほしがってはならない。」 325-328 十二.  十戒にある十の掟は、神の愛にかんすることと、隣人への愛にかん することを、全部含んでいる。 329-331 第六章 336 一. 神・救い主である主、イエス・キリストへの信仰こそ、救いにつながる。 337-339 二. 善い生活をおくり、正しい信仰をもてば、主によって救われる。これこそ、信仰の要約である。 340-342 三. 人が信仰を受け入れるとは、主に近づいて、〈みことば〉から真理を学び、それに従って生活することである。 343-348  新教会の信仰が「存在 Esse」するとは、①神であり救い主であるイエス・キリストにたいする確信があり、②善良な生活をし、正しい信仰をもてば、その人は主によって救われるという信頼があること。 344 四。 諸真理の総体は、お互いに呼応した内容が一つになって、信仰を高め、完成してゆく。 349-354 [Ⅰ]信仰の諸真理は、永遠に至るまで、多岐にわたって増えていく。 350 [Ⅱ]信仰の諸真理は、一連のものとして、系列化される。 351 [Ⅲ]信仰は、諸真理の総体と首尾一貫性に呼応して完成されていく。 352-353 五. 愛のない信仰は信仰ではなく、信仰のない愛は愛ではない。両者とも、主によらなければ、〈いのち〉はない。 355-361 [Ⅰ]人はみずから信仰を得ることができる。 356 [Ⅱ]人は、みずから、愛をもつことができる。 357 [Ⅲ]人はまた、信仰と愛のいのちを、みずから備えもつことができる。 358 [Ⅳ]ただし、信仰も愛も、その両方の〈いのち〉も、人からでなく、ただ主だけからくる。 359 六. 人間の中で生命・意志・理性が一つになっているように、主・愛・信仰は一つになっている。もしそれが分離した場合、真珠がくずれてコナゴナになるように、消滅する。 362-367 [Ⅰ]主は、みずから神としての〈愛・英知・生命〉の全てをもって、人間皆に流入を与えておられる。 364 [Ⅱ]従って、主は、信仰と愛のあらゆる本質をもって、人間皆に、流入を与えておられる。 365 [Ⅲ]主からの流入は本人の形相(けいそう)に従って、人によって受けとめられる。 366 [Ⅳ]主・愛・信仰をバラバラにする人の場合、本人は、受けとめる体勢 forma をもっておらず、破壊の体勢にある。 367 七. 主は、人間のうちにひそむ愛と信仰である。人間は、主のうちにあって、愛と信仰になる。 368-372 [Ⅰ]神に結ばれることによって、人間には、救いと、永遠の〈いのち〉がある。 369 [Ⅱ]父なる神との結びつきというものはないが、主と結ばれ、また主を通して父なる神と結ばれる。 370 [Ⅲ]主との結びつきは、相互補足的である。主は人のうちに、人は主のうちにある。 371 [Ⅳ]主と人間とのあいだの相互のつながりは、愛と信仰を通して行われる。 372 八. 善い行いの中にこそ、愛と信仰が、同時に存在する。 373-377 [Ⅰ]愛とは、善い意志のことである。善い行いは、善い意志をもって、善く実行することである。 374 [Ⅱ]愛も信仰も、心の問題である。それが行為に移されず、しかもその行為の中に、愛と信仰が共存していない場合、たわいもなく消えていく。 375-376 [Ⅲ]愛だけでは、善い行いが出てこないが、信仰のみではなおさらで、愛と信仰の両者が必要である。 377 九. 真の信仰、にせの信仰、偽善の信仰がある。 378-381 九. 真の信仰、にせの信仰、偽善の信仰がある。 378 [Ⅰ]真の信仰とは、ただ神であり救い主である主イエス・キリストを信じることしかない。それはまた、主が神のおん子であり、天地の神であり、おん父と一つであることを信じる信仰である。 379 [Ⅱ] にせの信仰とは、ただ一つしかない真の信仰から逸脱した信仰で、全て違った道からのぼり、主を神として認めず、ただの人間としてしか見ない信仰のことである。 380 [Ⅲ]偽善的信仰は、信仰ではない。 381 十. 悪人には信仰がない。 382-384 [Ⅰ]悪は地獄のもの、信仰は天界のものであるから、悪人には信仰がない。 383 [Ⅱ]たとえ道徳的生活をおくり、信仰について理性的に語り、教え、書いたとしても、主と〈みことば〉を排するキリスト教界の人には、なんの信仰もない。 384 一.  愛には、おおむね三種類ある。天界愛・世間愛・自己愛である。 394-396 [Ⅰ]意志と理性について 397 [Ⅱ] 善と真理について 398 [Ⅲ] 愛一般について 399 [Ⅳ]とりわけ、自己愛と世間愛について 400 [Ⅴ]内部人間 internus homo と外部人間 externus homo について 401 [Ⅵ]単に自然的・感覚的人間について 402 二. 以上三種の愛が、秩序正しい関係をもつとき、人間は完成されるが、秩序正しく関係づけられないとき、人間はゆがんでいく。 403-405 三. どんな人間でも、個人としては愛されなくてはならない隣人である。ただしそれも、個人のもつ善の性格による。 406-411 四. 大小の社会を構成する複数の人間と、その社会集団である人間、つまり国家は、隣人として愛されなくてはならない。 412-414 五. 教会は、最高度に愛されなくてはならない隣人であり、最高度の〈主のみ国〉である。 415-416 六.  隣人愛そのものは、その人物 persona を愛するのではなく、その人のうちにある善を愛することである。 417-419 七.  仁愛と善行はちがう。前者は、善い意志をもつこと、後者は、善い行いをすることである。 420-421 八。 各自が従事し交渉をもつ職務・勤務・仕事を、正しく忠実に行っていくことこそ、仁愛そのものである。 422-424  九。 貧しい人に物をめぐみ、乏しい人に助けの手をさしだすことは、仁愛からでる慈善には違いないが、思慮が必要である。 425-428 十. 仁愛からくる義務には、公(おおやけ)のもの、家庭のもの、私のものがある。 429-432 十一。 仁愛によるもてなしには、食事の提供や社交がある。 433-434 十二。 仁愛の第一は、悪を避けること、第二は、隣人の役に立つ善をすることである。 435-438 十三。 仁愛の実践にあたって、わざのうちに功績をおいてはならない。全ての善は、主からくるものと信じること。 439-442 十四. 仁愛こそ、道徳的・霊的いのちである。 443-445 十五. 霊の性格を無視して結ばれた友情は、死んだのち助けにならない。 446-449 十六. 仁愛にも、にせの仁愛、偽善的仁愛、死んだ仁愛がある。 450-453 十七. 悪人のあいだの友情は、内心では憎しみである。 454-455 十八.  神への愛と、隣人への愛の結合について 456-458 第八章 463-465 二.  エデンの園にあった二本の樹、すなわち〈いのちの木〉と〈善悪を知る木〉は、霊的な事柄について、人には自由選択の力があることを表す。 466-469 三. 人間は〈いのち〉そのものではなく、神からくる〈いのち〉の器である。 470-474 四. この世にあって、人間は天界と地獄の中間にあり、自由意志でもって、霊的均衡を保っている。 475-478 五. 人間は皆、内部で悪をおかす可能性を与えられているが、これは人間が霊的な事柄で、自由選択の力がある証拠である。 479-482 六. 霊的なことで自由選択がなかったら、真理は役立たず、その結果、教会も存在しなかった。 483-484 七.  霊的な事柄で自由がなかったら、人間にとって、主に結ばれていくことがないばかりか、責任もなくなり、いまわしい予定説になる以外にない。 485 八.  霊的な事柄で自由がないとしたら、悪の原因は神であることになり、愛や信仰にも、働きの主体がなくなる 489-492 九. 教会にある霊的なものは、人の自由に入っていき、自由意志で受け止められてこそとどまるが、その逆ではない。 493-496 十. この自由のうちに、人の意志と理性がある。ただし、霊界・自然界を問わず、悪をなすことは、法で抑制されている。その抑制がなかったら、両世界とも、社会は成り立たない。 497-499 一.  悔い改めは、人が教会に入るときの第一歩である。 510-511 二. 痛恨(つうこん)の情 contritio は、信仰の前提となり、福音の慰めに導くと言われているが、これは悔い改めとは違う。 512-515 三.  自分が罪人(つみびと)であると口で告白するだけでは、悔い改めにならない。 516-519 四. 人は、どんな悪でも犯せるよう生まれついている。この性向が悔い改めによって、いくらかでも取り除かれなくては、いつまでも悪のうちに漬かっているばかりで救われない。 520-524  十戒の一つでも違反すれば、十戒全部に違反します。それも程度に応じてますます法を全うできなくなると言われます。 523-524 五.  自分のなかにある罪を調べあげ、自分に罪を認めることで、悔い改めは始まる。 525-527 六.  自分の心を調べ、罪を認め、主に赦しを祈り、新しい生活を始めることこそ、本当の悔い改めである。 528-531 七.  自分の生活上の行為を調べるだけでなく、行為の意図を調べなければ、本当の悔い改めにはならない 532-534 八. 自己点検しなくても、罪だからと悪を避ける場合も、人は悔い改めていることになる。また宗教上、仁愛の行いをする人も、悔い改めていることになる。 535-537 九. 神であり、救い主である主のみ前で、告白しなければならない。そのさい、悪に抵抗する力と、行動を求める祈りをする。 538-560 十. 実際の悔い改めは、ときどき実践している人にはやさしいが、実践していない人には、抵抗を感じさせる。 561-563 十一. 悔い改めも、自己反省も、したことがない人は、罪になる悪は何か、救いにいたる善は何か、わからなくなる 564-566 一. 新しく造りかえられるため、霊的に再生しないなら、人は神の国に入ることはできない。 572-575 二。 新しく造りかえられるには、ただ主のみ力によって、仁愛と信仰と いう二つの手段が、人の協力によって働かなくては、実現しない。 576-578 三. 人は皆、あがなわれている以上、各自の状況に応じて、霊的に生まれ変わることが可能である。 579-582 四.  再生は、人が受胎し、成長し、誕生し、教育されていくようにして、行われる。 583-586 五. 新しい創造の第一を「自己改革 reformatio」といい、理性が主役である。第二は「再生 regencratio」で、意志が働き、そのあと理性が働く。 587-590 六. 最初に、内部人間が改革されなくてはならない。外部は、その内部を通して改革され、こうして、人間は再生する。 591-595 八. 人間の再生とは、新しい意志と、新しい理性のことである。 601-606 十. 人は、生まれ変わりにともなって、罪がとり除かれていく。このような罪との分離こそ、罪の赦しである。 611-614 十一. 霊的な事柄について自由がなかったら、再生もない。 615-617 十二. 再生は、真理なくしてはあり得ない。真理を通して、信仰はかたちをなし、信仰と仁愛が結ばれていく。 618-620 第十一章 626-627 二. 現代の信仰でもあるこのオカゲサマ信仰には、キリストの功徳と、そこからくる救いの二つがある。 628-631 三. あがない主キリストの功績と義のオカゲとする信仰は、ニケア信条から始まった。永遠のむかしからまします神の三位格の信仰は、現在までに、キリスト教界の全土に受けいれられた。 632-635 四. それ以前の使徒教会には、キリストの功績のオカゲといった信仰はなかったし、〈みことば〉にも、どこにもない。 636-639 五. キリストの功績と義を、オカゲサマ信仰によって、人間に転移させることは、不可能である。 640-642 六. 善と悪について、また信仰について、責任の所在認定は可能である。 643-646 七. 新教会にも、この責任所在認定の信仰があるが、これは従来の教会の責任転移(オカゲサマ)信仰と全然違う。もし混同すれば、人の知る教会が全滅するほどの、衝突と混乱が起こる。 647-649 八. 主は、人間皆に、善の責任をとらせられるが、地獄は、人間皆に、悪の責任をとらせようとする。 650-653 九. 信仰は、本人に結びつくとき、判定となる。真の信仰が善に結びつくと、永遠の生命にいたる判定となり、信仰が悪に結びつくと、永遠の死にいたる判定となる。 654-657 十. 思い cogitatio の責任は、だれにも負わせられないが、意志すれば、責任を負わなくてはならない。 658-660 二. 洗礼といわれている洗いは、霊の洗いのことで、悪と偽りからの浄化と、再生を意味する。 670-673 三. 洗礼は、割礼の代わりに制定された。包皮の割礼は、心の割礼を表すものであって、個々全体にわたって〈内部教会を表象する外部教会〉が、内部教会によって、受け継がれることを示す。 674-676 四. 洗礼の役立ちの第一は、キリスト教会への入門であるが、それと同時に、霊界のキリスト教徒への仲間入りでもある。 677-680 五. 洗礼の役立ちの第二は、キリスト信者として、あがない主であり、救い主であるイエス・キリストを、主として認め、その主に従うためである。 681-683 六. 洗礼の役立ちの最後としての第三番目は、人が霊的に生まれ変わることである。 684-687 七. ヨハネの洗礼は、神エホバがこの世にくだり、あがないを成就する道を準備するためであった。 688-691 第十三章 698-701 「パン」については、「肉」と同じように理解してください。それは、主のみ言葉から、はっきり分かります。 707 「おん血」のときと同じように、「ブドウ酒」についても言えます。 708 三. 以上が分かれば、教会と天界のあらゆることが、普遍的にも、個別的にも、聖餐のうちに含まれていることが分かる。 711-715 四. 聖餐のうちに、〈主の全て〉と、主の〈あがないの全て〉がある。 716-718 六. ふさわしい心で聖餐に近づくとは、主への愛と、隣人への愛をもっていること、つまりは、生まれ変わっている人のことである。 722-724 七. ふさわしい心で聖餐に近づく場合、人は主のうちにあり、主もその人のうちにまします。従って聖餐を通して、人は主と結ばれる。 725-727 八. ふさわしい心で近づく人にとって、聖餐は、神の子供としての印(しるし)になる。 728-730 第十四章 753-756 二. 現在、キリスト教会は末期にあるが、それは福音書にも、黙示録にも、予告され記録されている。 757-759 三. キリスト教会の末期とは、従来までの教会が消えていく夜のことである。 760-763 四. この夜のあと朝がくる。それは、主の到来 Adventus Domini のことである。 764-767 七. 今回の主の再臨は、個人としての出現 in persona ではなく、〈みことば〉による in Verbo ものである。これは、主ご自身による、主ご自身の再臨である。 776-778 八. この再臨は、主が個人的に、ご自身を啓示された人を通して行われる。主はかれを、おんみずからの霊で満たされたが、それは主ご自身に由来する〈みことば〉を通して、新教会の教義を教えられるためである。 779-780 九. これはまた、「新しい天」であり、「新しい地」であり、天からくだってくる「新しいエルサレム」のことであると、黙示録に記されている。 781-785 十・  この新しい教会は、従来までこの地上に存在した、あらゆる教会の冠である。 786-791 追補 792-795 二・ 霊界にいるルター 796 三・  霊界にいるメランヒトン 797 四・  霊界にいるカルヴィン 798-799 五・  霊界にいるオランダ人 800-805 六・ 霊界にいるイギリス人 806-812 七・ 霊界にいるドイツ人 813-816 八・  霊界にいる教皇派(ローマ・カトリック)の人たち 817-821 九・  霊界にいる教皇派の聖人たち 822-827 十・  霊界にいるイスラム教徒 828-834 十一・ 霊界にいるアフリカ人と異邦人 835-840 十二・  霊界にいるユダヤ人 841-845
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