스웨덴보그의 저서에서

 

真(ほんとう)のキリスト教 #653

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653. だれでも知っていることですが、小ヒツジは、小ヒツジのように振舞い、ヒツジはヒツジのように振舞う以外にはありません。それに反し、オオカミはオオカミのように、トラはトラのように振舞う以外はありません。皆いっしょにしてしまうと、オオカミは小ヒツジを襲い、トラはヒツジを食いつくします。羊飼いがいて番するのは、そのためです。

だれでも知っていることですが、おいしい水をわき出す泉は、その水源から、にがい水をわき出させることはありません。よい果樹が、悪い実をみのらせることもありません。またブドウの木が、トゲのようにささることはないし、百合(ゆり)の花がイバラと同じように傷つけることはないし、ヒアシンスがアザミのように、ちくりとくることもありません。むしろ有害な植物は、田畑やブドウ畑や庭園からひき抜いて集め、たばねて、火で焼いてしまいます。

主の〈みことば〉にもあるように、それと同じことが、霊界に入ってくる悪人にも起こります(マタイ13:30ヨハネ15:6)。主はまた、ユダヤ人たちに言われました。

「マムシの子らよ、あなた方は、悪人でありながら、どうして善を口にすることができようか。・・・善人は、自分の心のよい倉から、善いものをとり出し、悪人は、自分の心の悪い倉から、悪いものをとり出す」(マタイ12:3435)。

  
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스웨덴보그의 저서에서

 

真(ほんとう)のキリスト教 #651

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651. 理性自身も納得がいくところですが、主はどんな人間にも悪をしたり、わざと責任をとらせたりなさいません。主は、愛そのもの、慈悲そのもの、善そのものです。それが主ご自身の神としての本質なのです。ですから、悪いことや悪に属することを、主のご性格にすることは、主の神としての本質に反します。つまり矛盾です。それは、主と悪魔、天界と地獄をいっしょくたにするようなものです。次のように記されています。

「そのあいだには、大きな裂け目が口を開いていて、こちらから向こうに渡ろうとしてもできないし、向こうからこちらに渡ろうとしてもできない」(ルカ16:26)。

天界の天使も、だれかに悪いことを及ぼすことはできません。主のみ力による善の本質が、その天使に内在しているからです。それにたいし、地獄の霊は、他のだれかに、悪いことをしないわけにはいきません。悪魔の力による悪の性格が、その霊に内在しているからです。人はこの世で自分なりに身につけた本質や性格は、死んでからは変わりません。

考えてみてください。主が悪人を怒りをもって見られ、善人を優しい心で見られることがあるでしょうか。(悪人といっても、その数は数え切れないほどあり、善人といっても、その数は数え切れません)。善人を恵みをもって救い、悪人を復讐心でもって断罪されるとか、善人と悪人を違った目で見られたり、一方にはやさしく温和な目で眺め、他方はきびしくするどい目つきをされることなど、あり得るでしょうか。

そうなると、主が神であるとは、いったいどんなことなのでしょう。教会堂で説教を聞いている人たちは、それ自身善である善は、全て神に由来し、それ自身悪である悪は、全て悪魔に由来することを知らないはずはありません。もしある人が、善も悪も両方とも受け入れたらどうでしょう。善は主からいただき、悪は悪魔の力を借り、両方とも自分の意志で受けとめたとすると、「つめたくも熱くもなく、なまぬるいため、口から吐きだされる」と黙示録(3:1516)にある主の〈みことば〉のような人になってしまいます。

  
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