解説

 

アウトバウンド・ラブ

作者: New Christian Bible Study Staff (機械翻訳された 日本語)

A nice mother-daughter hug.

愛されることは本当に素晴らしいことです。お父さんがあなたの髪をなでてくれたときのこと、お母さんがあなたの隣で丸くなって物語を読んでくれたときのことを思い出せますか?あるいは、かわいい娘さんがあなたに微笑んでくれたときのことを覚えていますか?私たちはそのようなインバウンド・ラブが大好きです。それはとても良い感覚です。

そして...私たちにはアウトバウンドの愛も必要です。受けるよりも与える方が良い」という古い格言を聞いたことがあるでしょう。誰かを愛することができ、その人を幸せにしようとすることは、とても素晴らしいことです。その欲求の根源は何なのでしょうか?それは、精神的な起源から来ているのでしょうか?

それでは、聖書を取り出して、見てみましょう。主は、アウトバウンドの愛を「している」のでしょうか?

詩篇23篇を見るのが良いでしょう。

「確かに、善と慈しみとは、私の生涯のすべての日に私を追いかけ、私は永遠にエホバの家に住むであろう」 (詩編23:6)

ここでは、主の愛の優しさを示す、もう一つの素敵な抜粋をご紹介します。

「そして、彼らを抱きかかえ、手を置いて彼らを祝福された」。マルコによる福音書10:16)

このマタイの一節も、そのことをよく表しています。

「もし、あなたがたが、悪い者でありながら、自分の子供たちに良い贈り物をする方法を知っているなら、天におられるあなたがたの父は、求める者にどれほど良いものを与えてくださるでしょうか」(マタイによる福音書7:11)

ここにも良いものがある。

愛は神のものであり、愛する者はすべて神から生まれ、神を知っています。愛さない者は、神を知らないのです。ヨハネの手紙一4:7-8)

そしてもうひとつ、私たちの文化に深く浸透しているものがあります。

私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)

このような箇所を集めてよく考えてみると、神が愛の源泉であることがわかります。神はその本質において、愛そのものです。そして、愛は流れます。

ここで、スウェーデンボルグの神学書の中から興味深いものを抜粋してみます。

「...主の愛の本質を成すものは三つある。すなわち、人を愛すること...、人と一体になることを望むこと、人を幸福にすること...である」 (真のキリスト教43)

神様がこのような愛をお持ちなら、私たちもこのような愛をお持ちなのでしょうか?それは理にかなっています。御言葉の中で、一番最初の章にある天地創造の物語にはこうあります。

「神は言われた、『我々に似せて人を造ろう』」(創世記1:26)

そして27節ではその「作り」が行われ...そして31節では

「神はお造りになったすべてのものをご覧になり、見よ、それはとても良いものであった」。

つまり、この論文を編んでいくと、こうなります。

1) 神は愛に満ちている。ある意味では、神は愛である。

2)神は自分以外の人を愛し(アウトバウンド・ラブ)、彼らと一緒になりたい、彼らが幸せになるのを助けたいと思っている。

3)そして、私たちは神の姿に似せて作られています。

アウトバウンド・ラブが私たちにとって非常に重要であることは不思議ではありません。

スウェーデンボルグの著作から

 

真(ほんとう)のキリスト教#43

この節の研究

  
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43. [Ⅴ]愛の本質は、自分以外の他の者を愛し、かれらと一体になり、かれらを心から幸福にしたいと願うことである。

神の本質をなしているものは二つあります。それは愛と英知です。また、神の愛の本質をなすものが三つあります。それは、「自分以外の他の者を愛し」、「かれらと一体になることを欲し」、「かれらを心から幸福にしたいと願うこと」です。この三つは、また神の英知の本質でもあります。それは前述したように、神のうちにあって、愛と英知はひとつになっているからです。愛は欲し、英知は生みだす働きをもっています。

(2) 『自分以外の他の者を愛する』ということは、愛の本質の第一に挙げられます。これは、全人類にたいする神の愛からもお分かりでしょう。従って、神はご自身の創造された、全てのものを愛しておられます。それは、万物が手段になっているからです。目的を愛すれば、その手段も愛するはずです。

宇宙にある人も物も、全て神以外のものです。神は無限であるのにたいし、それらのものは有限だからです。神の愛はただ、善人や善いものだけでなく、悪人や悪いものにも及んでいます。だから、天界にある天使やその他のものだけでなく、地獄にある霊やその他のものにも及んでいます。つまり、ミカエルやガブリエルだけでなく、悪魔やサタンにも及んでいます。神は、永遠のむかしから、永遠にいたるまで、どこでも同一の方です。また、次のようにあります、

「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と。

ところがやはり、悪人はあくまで悪人であり、悪いものは悪いものです。というのは、その主体にも、物にも、神の愛をあるがまま、内在しているままに、受け入れないところがあり、結局は自分の性格を維持しているわけです。太陽の熱を受け、天から雨が降っても、イバラはイバラであり、アザミはアザミです。

(3) 神の愛の本質は、『他の者とひとつになりたいと願うこと』です。これは、神ご自身が、天使のいる天界、地上の教会、そこにいる者一人ひとり、また人間と教会に与えられているあらゆる善と真理に、結びあわされていることから分かります。そしてまた、愛はそのものとして見ると、一体化に向かって進んでいく以外のなにものでもありません。

愛の本質でもあるこのようなゴールに向かって、神は人を、ご自分の姿と〈かたち〉に似せてお造りになりました。これも一体化が行われるようになるためです。神の愛はたえず、この一体化に向かっています。それは、次の〈みことば〉からも分かります。

「わたしがかれらのうちにあり、かれらもわたしのうちにあり、神の愛がかれらのうちにあって、ひとつになることを願っています」(ヨハネ17:21-2326)。

(4) 愛の本質の第三番目は、『かれらを心から幸福にしたいと思う』ことです。このことは、〈永遠(とこしえ)のいのち〉からも察せられます。神ご自身の愛を受け入れる人に、神がお与えになる至福・幸運・しあわせです。というのも、神は〈愛そのもの ipse Amor 〉であるとともに、〈至福そのもの ipsa Beatitudo 〉です。

愛は全て〈うれしさ〉を発散します。神の愛となると、至福・幸福・しあわせそのものを、永遠に発散しておられますから、神は、みずから源となって、天使たちを至福にし beatificat 、死後の人間を至福になさいます。これもかれらとの一体化で実現します。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.