解説

 

キリスト教と政治:いくつかの考え

作者: Greg Rose (機械翻訳された 日本語)

cooking over fire

2024年、人類史上最も多くの人々が、より多くの国の選挙に投票した。すべての選挙が自由で公正なものであったわけではないが、ブラジル、インド、インドネシア、メキシコ、アメリカといった世界有数の大国や、南アフリカ、フランス、台湾、イギリスといった地域的に重要な国では、意義ある国政選挙が実施された。

政治と政党にとって大きな年だった。残念なことに、これらの国の多くでこの年の特徴のひとつは、政治的な相違を理由に、人々が他の人間を侮辱し、非難さえするような、激しい二極化であった。そしてこれは、多くの投稿やクリックが怒りと他者の非人間化を助長しているように見えるソーシャルメディアの暴挙産業によって助長された。

これはいくつかの自然な傾向の結果である。人間は包摂と連帯を求める傾向がある。そして、いったん集団の中に入ると、そのアイデンティティを倍増させる傾向があり、部外者をあまり良く扱わないように誘惑されることもある。これは特に政治グループにおいて顕著なようで、ワクチン、妊娠中絶、気候変動、移民など、何でも自分たちの政策が正しいと思い込んでしまう。そして、もしそのような政策的立場を共有しない人がいたら、その人は間違っているだけでなく、おそらくひどい人であり、その人とその政党に腹を立てるべきである。

これは宗教生活にとって心強い状況ではない。このような時、クリスチャンはどのように行動すべきなのだろうか?政治に対してどのようなアプローチを取るべきなのか?カーティス・チャンらによる近著『The After Party』に概説されている主の生涯の物語には、参考になる興味深い考え方がある。

新約聖書を読むとき、私たちは政治についてあまり考えない傾向があるが、イエスは非常に政治的な環境で育った。ルカによるクリスマスの物語からわかるように(参照)。 ルカによる福音書2), ローマ帝国がこの地域を支配し、数十年にわたって支配していた。その単純な地政学的事実が、その地域の生活、特に政治のあらゆる側面を彩っていた。

主がお生まれになった頃、さまざまな反乱とローマの政策がこの地域を揺るがした。そのひとつが、熱心党と呼ばれる運動の台頭で、そのメンバーはローマ帝国の占領からの脱却を望んでいた。彼らは、ローマ軍に鎮圧される前に、徴税人たちの家を焼き討ちするなど、反乱を起こした。彼らを率いていたのはユダという男で、ガリラヤのユダ、つまりイエスが成長することになるイスラエルの土地の一部だった。つまり、主は反ローマ感情に満ちた地域で成長されたのだろう。エリートのヘロデたちや徴税人たちは、他の多くのユダヤ人から裏切り者と見られていた。

ユダヤ人自身の間にも政治的な分裂があった。ファリサイ派とサドカイ派は当時の宗教的・政治的に対立する政党であった。サドカイ派はエリート貴族の傾向があり、ローマ支配下の現状に満足していたのに対し、ファリサイ派は占領に抵抗する傾向があった。現代と同じように、対立するグループや政党の間には多くの緊張と怒りがあった。

イエスはパズルだった。彼はパーティー(政治的なパーティーではなく、実際に楽しいパーティー)が大好きだったようだ。晩餐会や結婚パーティに出席し、人々を招待し、招待を受けたという話ばかりだ。批評家たちが彼を「大食漢で酒飲み」と呼んだほどである(マタイによる福音書11:19).

このような楽しいパーティーは政治的な問題を引き起こし、人々は彼が誰の味方なのか疑問に思った。ファリサイ派の招待を受けることもあった(ルカによる福音書7:36; 14:1) のみならず、徴税人(ルカによる福音書19:7). ファリサイ派の人々は弟子たちに、なぜ徴税人たちと食事をしたのかと尋ねた(マルコによる福音書2:16).

イエスの社交界も人々を混乱させた。福音書の中で、12使徒がどのように紹介されているかに注目してほしい。 マタイによる福音書10 そして ルカによる福音書6): “ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイオの子ヤコブとタデウス、熱心党員シモンと彼を裏切ったイスカリオテのユダ。"

何人かは名前だけで紹介され、何人かは家族の素性で紹介されているが、2人は当時の党派的な政治的論争の中での位置づけで明確に紹介されている。イエスは、既存の政治的分裂のあらゆる側面の人々を意図的かつ明確に取り込んだのである。サマリア人や百人隊長とも親交があった。

そのため、イエスは政治的な試練に直面した。それは マタイによる福音書16, ファリサイ派とサドカイ派がイエスを試しに来て、天からのしるしを求めた。彼らは多くの点で意見が対立していたが、イエスを釘付けにする必要があること、つまり当時の政治的な争いの中でイエスを特定させる必要があることでは一致していた。彼らがイエスを試そうとしたのは、イエスの以前のしるしや奇跡が政治的に曖昧だったからである:

一方では、イエスが五千人を養い、後には四千人を養ったことは、ローマに反抗する軍隊を育て、食べ物を通して忠誠を得ることを示唆していた。マルコによる福音書では、大群衆が何百人、何十人という会社や広場に分けられたとさえ書かれている(マルコによる福音書6:39-40). これは、軍事的反乱を期待する熱心論者やパリサイ人にとっては非常に有望に思えたに違いないが、徴税人やサドカイ人が好む現状にとっては脅威であった。

しかし、イエスはこの2つの大きなピクニックの後、群衆を退け、去って行かれた(マルコによる福音書6:45; 8:9), 彼が軍人ではなく、宗教指導者であったことを示唆している。だから、熱心党は失望し、徴税人たちは安心したことだろう。

要するに、主は試験を受けることを拒否されたのだ。彼の教えは常に政治的な論争を超え、人々と他の人々との関係に目を向けるよう人々に呼びかけた。山上の説教でガリラヤの聴衆を前にしたとき、主はこう言われた。『あなたがたは、隣人を愛し、敵を憎め』と言われたのを聞いたことがあるだろう。あなたがたは、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われているのを聞いたことがあるだろう。しかし、わたしは、あなたがたの敵を愛し、あなたがたを呪う者を祝福し、あなたがたを憎む者に善を行い、あなたがたを虐待し、迫害する者のために祈りなさいと言う」(マタイによる福音書5:43-44).

自分たちを圧迫している敵を愛するべきだという言葉を聞くのは、ほとんどが親ゼロ派のガリラヤ人の群衆にとってどれほど辛いことだったか想像してみてほしい。アメリカ人にとって、ドナルド・トランプやジョー・バイデンを愛するべきだと言われるよりも難しいかもしれない。

ここから何が読み取れるだろうか?私たちはまだ自分たちのグループ、アイデンティティ、信念を持つことができる。良いやり方、悪いやり方について気骨ある対話をすることはできる。しかし、他の人間とどのように関わり、関係するかという精神的価値観から免れることはできない。政治的/社会的集団のアイデンティティーと、それに起因する政治的憤りを克服するのは難しいかもしれないが、『政治的憤り』(邦訳『政治的憤り』)に示されているような公式を用いることはできる。 神の摂理94 はシンプルだ:

「隣人を自分自身のように愛するとは、単に人を不誠実に扱ったり、不当に扱ったりしないことであり、憎しみを抱いたり、復讐に燃えたりしないことであり、悪口を言ったり、中傷したりしないことであり、配偶者と姦淫したりしないことであり、そのような性質のことを何もしないことである。このようなことをする人は、隣人を自分のように愛していないことに気づかない人がいるだろうか?しかし、そのようなことは隣人にとって悪いことであり、また神に対する罪でもあるので、そのようなことをしない人々は、隣人に対して正直、公正、誠心誠意、忠実に接するのである。"

この一節も関連しているようだ:

慈愛がないとき、人々は隣人の中に悪以外何も見いだせない。その人の中に何か良いところがあっても、それを否定するか、悪い解釈をする。彼らはすべての人を調べ、裁き、悪を見つけることだけを渇望し、絶えず非難し、罰し、苦しめようとする。

慈愛に支配された人々は、まったく異なる行動をとる。他人の悪に気づくことはほとんどなく、その人の中にあるすべての善と真に注意を払う。悪や偽りを見つけても、それを良い方向に解釈する。これはすべての天使の特徴であり、すべての悪を善に向かわせる主から得たものである(アルカナ・コエレスティア1079:2).

聖書

 

マタイによる福音書 5

勉強

   

1 イエスはこの群衆を見て、に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。

2 そこで、イエスはを開き、彼らに教えて言われた。

3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らはを見るであろう。

9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

13 あなたがたは、地のである。もしのききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。

14 あなたがたは、世のである。山の上にあるは隠れることができない。

15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上おいて、家の中のすべてのものを照させるのである。

16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。

21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

23 だから、祭壇供え物をささげようとする場合、兄弟が自分対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、

24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。

25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。

26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。

30 もしあなたの右のが罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

31 また『を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。

32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべてに対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。

35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。

36 また、自分のをさして誓うな。あなたは髪の一すじさえ、白くもくもすることができない。

37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。

38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。

40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。

41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共にマイル行きなさい。

42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。

43 『隣り人をし、を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

44 しかし、わたしはあなたがたに言う。し、迫害する者のために祈れ。

45 こうして、天いますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上も良い者の上も、太陽をのぼらせ、正しい者正しくない者も、を降らして下さるからである。

46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。

47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。

48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。