みことばの中に、息子が悪魔にとりつかれた男の話がある。この男は息子を主の弟子たちのところに連れて行き、助けを求めたが、弟子たちは悪魔を追い出すことができなかった(マルコ9:14-18)。主が到着すると、男は主に助けを乞うた(マルコ9:22)。すると主は、「信じることができるなら、信じる者にはすべてのことが可能である」と答えられた(マルコ9:23)。
これは、主がご自分を信じるようにと人々に促す数十の福音書の物語の一つに過ぎない。新教会は、信仰だけでは誰も救われないとはっきりと教えている。しかし、もしあなたが福音書しか知らなかったとしたら、信仰が天国への鍵だという結論に達することは許されるだろう。結局のところ、主は「信じてバプテスマを受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる」(マルコ16:16)と言っているのだ。
人々は時々、福音書の中で主が信仰について語られる方法に悩まされる。人々が頭の中の考えだけで救われるというのは筋が通らない。 新キリスト教会の教えの中で強調されているのは、役に立つことが天国へ、そして幸福へとつながるということである。このような教えのせいで、新教会は時に、信仰は比較的取るに足らないものだと見るべきだという印象を人々に与えてしまう。
しかし、天の教理は信仰が取るに足らないものだとは言っていない。実際に言っているのは、慈愛に結ばれていない信仰は本当の信仰ではないということです。真理の内的認識である救いの信仰は、慈愛の状態にある人にのみ可能である」(信仰教理§24)とあります。言い換えれば、主が私たちに主を信じるよう促すとき、主は明らかに、私たちが主の教える考えを受け入れて、それから何もしないということを意味しているのではありません。主を信じるとは、主が教えてくださるとおりに生きることである。その生活に結びつかない信仰は、本当の信仰ではない。
この考えは、信仰は重要ではないという考えとはまったく異なる。慈愛を実行に移せという呼びかけを強調すると、何をするかしないかがすべてであるかのような印象を持ちかねない。そうではない。主は何度も何度も、もし私たちが天国の幸福を望むなら、主を信じる必要があると語っておられる。
主を信じることがなぜそんなに重要なのかは、いろいろな方法で説明できるだろう。しかし、ここに一つの説明がある。生まれつきの精神状態では、私たちがどれほど主を必要としているかわからない。主なしには、何が本当に良いことで、何が単に良いことのように見えるのかがわからない。私なしには何もできない」(ヨハネ15:5)。金持ちが天の御国に入ることは事実上不可能であり、「人には不可能であるが、神には万事が可能である」(マタイ19:23-26)と言われる。金持ちとは、主が与えてくださったすべての良いものを自分の手柄とする人を象徴している。私たちは、自分の力、自分の善意、自分の霊的な豊かさでは自分を救うことはできない。しかし、神には万事が可能である。主を信じるとは、これらのことを認識し、目の前に置いておくことである。上に引用した箇所にあるように、信仰とは「真理を内的に認めること」である(信仰の教義§24)。そして真理とは、私たちが主を必要としているということです。
私たちが主を必要としていることの最も端的な証拠は、主なしには悪しかないという教えである。この考え方は、多くの人々に辛辣で陰鬱な印象を与えるが、それが真実であるならば、たとえ耳にしにくくとも、注意を払う価値がある。そして、天の教典の中で、主なしには得られないものについて語られている箇所は、決して単独では存在しない。その一例を挙げよう:
すべての人間は、たとえ何人であろうと、主によって悪から遠ざけられる。というのも、生まれつきの遺伝と、自らの行いによって身につけたものの両方によって、誰もが常に悪に傾倒しており、もし主が引き止めてくださらなかったら、今にも最下層の地獄へと真っ逆さまに突き進んでしまうほどなのだ。しかし、主の慈悲は非常に偉大であり、そのような場所に突進するのを差し止めるために、一瞬一瞬、ほんの一瞬でも、彼は引き上げられるのである。(アルカナ・コエレスティア§2406.2)。
この一節の真ん中が難しいところだ。誰もが悪に手を染めているという考えを誰が好きになるだろうか?しかし、この箇所は美しい希望のメッセージで始まり、終わる。主は私たち全員を悪から遠ざけ、私たちが信じる以上に強大な力をもってそうされる!そして主は、純粋な憐れみからそれをなさる。主とともに、私たちは生まれつきの利己主義よりもはるかに優れたものを手に入れることができる。そして主はすでに働いておられ、その可能性を現実にしようと努力しておられる。天の御国はもう目の前にあるのだ(マタイ3:2、4:17、10:7)。しかし、私たちは自分の力でそこに到達することはできない。「人には不可能だが、神には万事が可能である」(マタイ19:26)。


