Kommentar

 

無限と永遠

Durch New Christian Bible Study Staff (Maschinell übersetzt in 日本語)

This is single light soap bubble photograph taken under macro photography with Canon 6D and Tokina 100 f/2.8 Macro lens.

finite」という言葉は、何かに限界や境界線があることを意味しています。これは、レースのフィニッシュラインのように、フィニッシュと同じ語源から来ています。何かが有限である場合、それは、十分に先に進めば、終わりが来ることを意味します。終わりがないということは、有限ではなく、「無限」ということになります。

同様に、「永遠」という言葉には、時間に縛られないという意味があります。

私たちは、無限で永遠の何かをほとんど想像することができますが、そうではありません。本当に大きなものや、本当に長い時間を要するものを考えるのは、正確ではありません。しかし、それは少なくとも、神の性質が何であるかを考えるために私たちの心を伸ばすための出発点です。

ここには物理的な宇宙がある何かから来たに違いないさらに、私たちは、あまりにも、精神的な現実があることをこれらの垣間見ることができます。数学は、物理的な世界の意味を理解するのに必要な、より多くの「次元」があることを示唆しています。何人かの人は死の間際の体験をしています。死にかけている人の中には、すでに死んだ人とコミュニケーションをとる人もいるようです。これらのことは、死後の世界、および/または存在の霊的な平面があるかもしれないことを少なくとも示唆している - そして神が存在すること。

新キリスト教の神学では、無限の永遠の神が存在すると信じています。神は、すべてのものの源泉である「神の愛」であり、その愛を形にする「神の知恵」です。神は空間や時間に縛られない方です。

このような考え方は、神を遠く離れた存在に感じさせるかもしれませんが、論理的にはそうである必要はありません。無限の神は「十分に大きく」、宇宙を創造し、維持しているだけでなく、私たち一人一人に神の流れを受け取る能力に合わせた方法で流れ込むことができます。永遠の視点を持つ神は、たとえ私たちがそれを知覚できなくても、その中で私たちの生活の中で、私たちの時間の中で活動する能力を持っています。

これらの概念は、科学、哲学、数学、宗教など、多くの種類の思考の限界にあります。これらの分野には根本的な調和があるのですが、時として見えにくいことがあります。特に私たちは先入観に阻まれたり、有限の心を持って活動しているので、実際には見えているものしか見えないものと格闘しているからです。

(Verweise: 真のキリスト教27-33)

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真(ほんとう)のキリスト教 #21

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21. [Ⅲ] 神は、〈みずからのうちに存在する方 Esse in se 〉であるとと もに、〈みずからのうちに実在する方 Existere in se 〉である。

神エホバは、みずからのうちに存在する方です。なぜなら神は、「わたしはある方 Sum」・それ自身である方 ipsum ・唯一無比の方・最初である方・永遠から永遠にいたる方・何物かが存在するときの〈みなもと〉となる方だからです。最初であるとともに最後である方・初めであるとともに終わりである方・アルパであるとともにオメガである方なのです。このみずからある方は、みずからによって a se 存在しているのではありません。そうなると、みずからが出発となって ex se ponit prius、時間のうちにあることになり、無限でないことになります。これを、永遠のむかしから ab aeterno 存在すると言ったところで同じです。そうすると、みずから存在するもうひとりの神を、想定することになります。すなわち、「神よりの神 Deus a Deo」が存在すれば、神がご自身をかたちづくられたことになり、造られない無限の神ではなくなります。みずからが、みずからによって、または他の何かで、規定されることになるからです。

神が〈みずからのうちに存在する方〉であるということは、みずから愛である方 Amor in se 、みずから英知である方 Sapientia in se、みずから生命(いのち)である方 Vita in se 、そして、万物が何ものかとして存在するときかかわる存在の〈みなもと〉である方のことです。神はみずから〈いのち〉にましますからこそ、神です。このことは、ヨハネによる福音書(5:26)やイザヤ書の主の〈みことば〉から明らかです。

「わたしは主 Jehovah である。わたしはよろずの物をつくり、ただわたしだけが、天をのべ、地を開き・・・」(イザヤ44:24)。

神はおひとりです。そして神ご自身以外には、神は存在しないのです(イザヤ45:14152122ホセア13:4)。神は、〈みずからのうちに存在する方 Esse in se 〉だけでなく、〈みずからのうちに実在する方 Existere in se 〉です。というのは、存在も実在するのでなければ、何ものでもないからです。それは、実在も、存在するのでなければ、何ものでもないのと同じです。存在と実在は表裏一体です。それと同じように、実体のない形相も考えられません。実体に形がなかったら、それについて何かを述べることはできません。それには何の性格もなく、それ自身としては、無であるということになります。

ここで、「存在 Esse」と「実在 Existere」について言っているのと同じことが、「本質 Essentia」と「実存 Existentia」についても、言えるというわけではありません。なぜなら、存在と本質、実在と実存は、それぞれ違うからです。それは、先在 Prius と後在 Posterius との関係で、先在するもののほうが、後在するものより、普遍的であるわけです。

ということで、神の「存在 Esse」には、「無限」とか「永遠」というコトバがあてはまり、神の「本質 Essentia」とか「実存 Existentia」には、神の「愛」や「英知」があてはまります。そこから、「全能」とか「全知」という二つの属性も分かってきますが、これについては順序よく説明していくつもりです。

  
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真(ほんとう)のキリスト教 #24

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24. [Ⅴ]むかしも今も、神を複数にするのは、神存在がわかっていないからである。

8節で、前述したように、神がおひとりであることは、人の心のなかに刻みつけられています。これは、神から人の魂のなかに注がれる流入のなかでも、芯になることです。ところが、人が神に向かってのぼっていくには、手段となる認識力が必要ですが、それが足りないので、この流入が、人間の理性にまでくだってきません。人は皆、神への道を自分で準備するわけで、それは認識力を通して、受け入れ態勢をつくります。

認識力 cognitiones が不足すると、どうなるでしょう。神がおひとりであること、しかも神は独一的存在でなくてはならないこと、全自然界はその神によることなどが、理性的な直感力でも見通せなくなります。そのため、次のようことが、分からなくなります。

① 霊界には、霊や天使がおり、人は死んだのち、かならずそこへ行くこと。

② その霊界には、中央に神エホバによる純粋の太陽がましますこと。

③ その太陽から、愛を本質とする熱と、英知を本質とする光が出てくること。

④ 霊界にあるものは全て霊的で、人間の内部に影響をおよぼし、それが意志と理性を働かせていること。

⑤ 神エホバは、ご自身の太陽を〈みなもと〉として、霊界をつくられ、無数にある霊的実体を全てお造りになったこと。また自然界を造られ、無数に存在する自然的物質も、全て造られたこと。

⑥ いままでだれも、霊的なものと自然的なものとの違いが分からず、まして霊的なものの本質が何なのか分からなかったこと。

⑦ 愛と英知には三つの段階があり、それにもとづいて、天使のいる天界は秩序づけられていること。

⑧ 人間の心はそれと同じように、三つの段階に区分されているが、それは各自が、自分の〈いのち〉と信仰にもとづいて、死後三層の天界の一つにあげられるためであること。

⑨ 以上のようなものも全て、神なくしては、その片鱗(へんりん)さえ存在するようにはならない。神とは、みずからのうちに存在し、万物の源で、最初であるとともに、始源である方であること。

以上が分かるためには、心を高くあげ、神を認めることができる認識力が必要ですが、それが欠けていたのです。

(2) 「人はのぼっていく homo ascendit」と言われますが、これは「神によってあげられる a Deo elevatur」という意味です。人は何かを認識するにも、それを準備するための自由意志があります。そして理性を媒介として、〈みことば〉から何かを認識するさい、神がくだって人間をひきあげてくださる一連の過程があります。人の理性は、認識を通してのぼっていきますが、それは神が、み手をもって、人をささえ導かれているからです。その認識の過程は、ヤコブが見た階段 gradus scalae に比べられます。階段は地面に支えられ、その上部は天に届き、そこを天使たちがのぼり、エホバはそのうえに立っておられます(創世28:1213)。

このような認識がなく、人がそれをないがしろにしている場合は、まったく違っています。そのとき理性は、壮麗な宮殿の一階にある住まいの窓に向かって、地上からはしごがかけられている状態にくらべられます。人々はそこに留まったままで、霊が住んでいる二階の窓にまで届きませんし、まして、天使のいる三階の窓にはいたりません。そこで人は、自然の物質的大気のなかで、眼と耳と鼻を働かせて、じっとしているに過ぎないのです。そこからは、天界とか、神の存在や本質については、物質的・気分的な考えしか浮かんできません、人は神について考えても、存在するかどうか、唯一か多数かなどについても、判断がくだせませんし、まして神の存在や本質について、思い巡らすことはできません。古代でも現代でも、多神教がうまれたのはそのためです。

  
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