342. 前節(336-339)で述べましたが、神である救いの主イエス・キリストにたいする信仰が、人を救います。ところで、その方にたいする信仰の第一歩は何か、と問われれば、答えは、「その方を神のおん子 Filius Dei と認めること」です。主がこの世に来られ、啓示され、宣言なさったことは、このような信仰の第一歩でした。それは、神のおん子であることを宣言され、神よりの神であることをはっきり示されない限り、ご自身にたいする信仰をご自分で伝道されても、そのあと使徒たちが同じことをしても、意味がないからです。これは現在でも同じです。自分のエゴで考える人、つまり外部的・自然的な人間から考える人は、神エホバがどのようにしてそのおん子をみごもらせ、しかも人間が神になることがあるかと自問自答します。だから、この信仰の第一歩は、〈みことば〉によって確証し、打ち立てていく必要があります。それで次の箇所を引用しましょう。
「天使はマリヤに言った、『あなたはみごもって、男の子 Filius を生むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。かれは、大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。・・・そこでマリヤは、天使に言った、『どうして、そんなことがあり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。天使が答えて言った。『聖霊があなたにのぞみ、いと高き者の力が、あなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は、聖なる者であり、神の子 Filius Dei ととなえられるでしょう」(ルカ1:31、32、34、35)。
「イエスが洗礼をうけられたとき、天から声があって、言った、『これこそ、わがこころにかなう愛する子である』と」(マタイ3:16、17、マルコ1:10、11、ルカ3:21、22)。
「そのときイエスのみ姿がかわった。そして天から声があって、言った、『これこそ、わが心にかなう愛する子である。この人の言うことを聞きなさい』と」(マタイ17:5、マルコ9:7、ルカ9:35)。
(2)「イエスは、弟子たちに尋ねた、『人々はわたしをだれだと言っているのか』と。・・・ペテロが答えて言った、『あなたは、生ける神の子、キリストです』と。イエスは、『ヨナの子シモン、あなたはさいわいだ。・・・わたしもあなたに言う、・・・この岩のうえに、わたしの教会を建てよう』」(マタイ16:13, 16-18)。
主は、「この岩のうえに、わたしの教会を建てよう」と言われましたが、それはすなわち、神のおん子 Filius Dei であるという真理と宣言のうえに建てるという意味です。「岩 petra」とは、真理のことであると共に、〈神の真理の面からみた主〉のことでもあります。だから、〈主が神のおん子にまします〉という真理を告白しない場合、その人には教会が存在しません。だからこそ、前述のように、以上がイエス・キリストにたいする信仰の第一歩であるわけです。つまり信仰のはじまりは、ここにあります。
「洗礼者のヨハネは会って、その方が神のおん子であることを証言した」(ヨハネ1:34)。
「弟子のナタナエルは、イエスに向かって、『あなたは神のおん子です。イスラエルの王です』と」(ヨハネ1:49)。
「十二人の弟子たちは、『わたしたちは、あなたが、生きた神のおん子キリストであると信じています』と言った」(ヨハネ6:69)。
「その方は、神のひとり子、父のふところにあって、父から生まれたひとり子と呼ばれる」(ヨハネ1:14、18、3:16)。
「イエスみずから、大祭司のまえで、ご自分が神のおん子であると告白された」(マタイ26:63、64、27:43、マルコ14:61、62、ルカ22:70)。
「船に乗っていた者らは、やってきて、イエスを礼拝し、あなたは本当に、神のおん子です、と言った」(マタイ14:33)。
「宦官(かんがん)は、洗礼をうけたいと思い、ピリポに言った、『わたしは、イエス・キリストが神のおん子であると信じます』と」(使徒8:37)。
「パウロは改心してから、キリストが神のおん子であると、のべ伝えた」(使徒9:20)。
「イエスは言われた、『死んでいる者が、神のおん子の声を聞くときが来た。そして聞く者は、生きるであろう』と」(ヨハネ5:25)。
「信じない者は、もう裁かれている。神のひとり子のみ名を信じないからである」(ヨハネ3:18)。
「以上のことが記されたのは、イエスが神のおん子キリストであると、あなた方が信じるためである。・・・そして信じることによって、そのみ名によって、いのちを得るためである」(ヨハネ20:31)。
「わたしがあなた方にこう書いたのは、あなた方が神のおん子のみ名を信じ、その結果、永遠の命を得ることができることを、知ってもらうためである」(Ⅰヨハネ5:13)。
「わたしたちは、神のおん子が来られることを知っている。・・・その方は、わたしたちが真理をみとめ、真理のうちにあり、神のおん子イエス・キリストのうちにあるようにしてくださった。この方こそ、神であり永遠のいのちである」(Ⅰヨハネ5:20)。
「イエスが神のおん子であると告白するとき、神はかならず、その人のうちに宿り、その人は、神のうちに宿る」(Ⅰヨハネ4:15)。
その他(マタイ8:29、27:40、43、54、マルコ1:1、3:11、15:39、ルカ8:28、ヨハネ9:35、10:36、11:4、27、19:7、ローマ1:4、Ⅱコリント1:19、ガラテヤ2:20、エペソ4:13、ヘブル4:14、6:6、7:3、10:29、Ⅰヨハネ3:8、5:10、黙示2:18)。
エホバみずから、「子」と呼んでいる箇所もたくさんあります。またそれ以外にも、おん子がみずから、神エホバを、ご自分の父と呼んでいるのです。例えば、
「父が行われることは全て、子もその通りに行う。父が死者をよみがえらせて生かしたように、子もその通りにする。・・・それは、全ての者が、父を敬うように、子も敬うようになるためである。・・・父がご自分のうちに〈いのち〉をもっておられると同様に、父は子にも、自分のうちに〈いのち〉をもつようにしてくださった」(ヨハネ5:19-27)。
その他にもいろいろありますが、ダビデは記しています、
「わたしは、主の定めをのべよう、エホバはわたしに言われた、あなたはわたしの子だ。わたしは、きょうあなたを生んだ。・・・あなた方は、子に接吻しなさい。あなた方が子の怒りをかって、道の途中で滅んでしまわないためなのだ。子の怒りは、すぐ燃えるだろうから。ただし、エホバに信頼する者は、さいわいである」(詩2:7、12)。
(3) 以上のことから、次の結論が出てきます。だれでも、本当のキリスト信者になりたい、キリストによって救われたいと思うなら、イエスが生ける神のおん子であると、信じなくてはなりません。これを信じないで、イエスをマリヤの子であるとしか信じなかったら、自分の救いをメタメタにしてしまいます。つまり、イエスについての破壊的な考えを、植えつけていってしまうのです。これについては、前(90、94、120)節を参照してください。ユダヤ人についても、同じようなことが言えます、
「かれらは、王冠のかわりに、いばらで作った冠をかれの頭上にのせ、またかれに酢を飲ませ、叫んで言った、『もしおまえが神の子なら、十字架からおりてみろ』」(マタイ27:29、34、40)「誘惑者である悪魔は、『もしおまえが神の子なら、この石をパンに変えろ』とか、『もしおまえが神の子ならここから身を下に投げろ』などと言った」(マタイ4:3、6)。
かれらは、主の教会と主の神殿をけがし、それを泥棒の巣にしています。主への崇拝とムハンマドへの崇拝を同列に考え、主を礼拝する本物のキリスト教と、自然主義とのあいだに相違をおきません。薄い氷のうえを、馬車か橇(そり)で走っている人に似ています。氷は裂け、下に沈んでいきます。かれらは、馬や車もろとも、氷と水でおおわれます。あるいはまた、ヨシやイグサで舟を造って、それをタールでかため、大洋に乗りだす人に似ています。海に出ると、タールは溶け、大海の水で溺れ、海底へ沈んでいきます。